一般社団法人 日本新聞協会

興梠 慎三(こうろき しんぞう)。1986年生まれ宮崎県出身。プロサッカー選手、Jリーグ・浦和レッドダイヤモンズ所属。2005年鹿島アントラーズに入団、2013年より浦和レッズで前線の起点として、また得点源として活躍する。2022年、北海道コンサドーレ札幌への期限付き移籍を経て、同年浦和レッズに復帰。2024年3月17日にはJ1リーグ湘南ベルマーレ戦にてシーズン初ゴールを記録。前人未到のJ1リーグ18年連続ゴールを達成した。

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興梠 慎三(こうろき しんぞう)。1986年生まれ宮崎県出身。プロサッカー選手、Jリーグ・浦和レッドダイヤモンズ所属。2005年鹿島アントラーズに入団、2013年より浦和レッズで前線の起点として、また得点源として活躍する。2022年、北海道コンサドーレ札幌への期限付き移籍を経て、同年浦和レッズに復帰。2024年3月17日にはJ1リーグ湘南ベルマーレ戦にてシーズン初ゴールを記録。前人未到のJ1リーグ18年連続ゴールを達成した。

「浦和のエース」と呼ばれ、ファンから愛され続けている興梠慎三選手も、実は新聞配達の経験者です。「大変でしたが、やってよかったです」と語る興梠選手に、新聞配達だからこそ得られた経験や、日々頑張るための考え方について伺いました。
インタビュー日:2024年4月18日

「目立ちたがり屋」がプロサッカー選手に

出身は宮崎で、とにかく体を動かすことが好きな子どもでした。小学校5年生までは兄と一緒に野球チームに入っていたのですが、兄がチームを卒業して一人になってしまいました。そんなときに友達が「サッカーやろうぜ」と誘ってくれたのがサッカー人生のスタートでした。最初は遊び感覚だったのですが、続けていくうちにどんどん本気になり、いわゆる強豪校と呼ばれる高校に進学しました。

高校では一つ上の学年に元サッカー日本代表の増田誓志さんが在籍していました。彼は2年生のときにU-18日本代表に選出されました。代表の活動から帰ってきた彼から「新しいスパイクをもらった」と聞かされ、目立ちたがり屋の僕はもう悔しくて、悔しくて(笑)。「この人には負けていられない」「絶対に認められる選手になりたい」と練習に励んでいました。すっかり忘れていましたが、最近見た中学校の卒業文集で、自分は「将来はプロサッカー選手になる」と宣言していました。この頃からプロを意識していたのかもしれません。

小学校で始めてから今に至るまで、サッカーは僕にとってずっと好きな、楽しいものです。当然プロとしてプレッシャーを感じることはありますが、それすら楽しさの一部だったりします。サッカー教室で子どもたちに指導するときも、教えることによって自分自身が成長できる楽しい場だと感じています。サッカーでお金を稼いでいる以上、これが僕の「仕事」なのですが、これが世間一般でいうところの「仕事」や「労働」と同じかというと・・・少し違うような気がしています。僕の人生でもっとも「仕事をしている」という手応えが強かったのは、実は中学生の時に携わった新聞配達の仕事です。

労働の大変さを知って感謝の気持ちが生まれた

きっかけはありふれていて、自分の自由になるお金を自分で稼ぎたかったからです。当時は新聞配達をする友達が周りにいて、「僕もやろうかな」と軽い気持ちで始めたように覚えています。実際に始めるとこれがけっこう大変でした。もともと何時であろうがスパッと起きるタイプですし、体力も有り余っていたので余裕だろうと思っていたのですが、新聞を配達する家を覚えるのには苦労しました。配達漏れがあって、あわてて届けにいったこともあります。今もそうなのですが、当時はインターネットが普及する前だったこともあり、新聞は「地域の皆さんが毎朝待っている」存在。新聞配達員は毎日の情報源を運ぶ重要な役割を担っているわけですから、子どもなりに責任を感じながら配っていました。

ときには早起きの人に「おはようございます」とあいさつしたり、庭掃除をしているおばあさんと顔なじみになったり。よくあいさつを交わしていたご家庭のポストに「いつもご苦労様」と書かれたメモが貼ってあったことがありました。おそらく僕に宛てたメッセージだと思うのですが、自分の頑張りを見てくれている人がいたことが嬉しくて。喜びや達成感、気恥ずかしさ、感動といったものが混じり合ったあのときの感情は、今も忘れられません。

新聞配達で得たお金は、服や新しいスパイクの購入に使いました。親にねだって買ってもらったものと比べると、重みがまったく違います。自分が苦労した結果のスパイクですから、すごく大切にしていました。振り返ってみても、新聞配達で“稼ぐ大変さ”を知ったことは、とても価値のある経験だったと思います。その後、練習が忙しくなって新聞配達はやめてしまったのですが、自分の中で経験は生き続けていて、両親への感謝、身の周りの商品やサービスへの感謝、そしてプロになってからは応援してくれるファンへの感謝へと、一本の糸のようにつながっているように感じています。

「身近な人を喜ばせたい」がエネルギーになる

新聞配達というのはみんなが寝ている間にする仕事なので、当然目立つ仕事ではありません。でも絶対に必要な仕事で、誰かの支えになる仕事。目立ちたい、注目を浴びたい一心でサッカーに取り組んできた僕が、徐々に自分のためでなく、仲間のため、チームのため、ファンのため、という視点を持てるようになったのは、新聞配達をはじめとする多くの目立たない仕事にリスペクトを持つようになったからかもしれません。

今も全国に500人ほどの新聞少年がいると聞きました。大変ですよね。みんなすごいと思います。でも意外と周りにも新聞配達の経験者っているもので、同じチームにいた槙野智章選手ともあるイベントでお互い新聞配達をやっていたことを知り、大いに盛り上がりました。新聞配達経験者はその大変さを知っていますから、「僕もやっていました」というだけで一目置かれます。「お前やるな」的な(笑)。そういう意味でもやってよかったと思っています。

眠くて配達に出るのがつらい日もあると思います。僕はそんなとき「待ってくれている人がいるから」と自分を奮い立たせていました。ふと気づいたのですが、僕は今も同じ気持ちで頑張っています。とくに浦和レッズのような地域密着型のチームでは、ファンの皆さんはもう新聞配達圏内のご近所さんみたいなもの。自分にとって身近な人を喜ばせたい、期待に応えたい、そんな思いをエネルギーにできる人であれば、どんな業界でも活躍できると信じています。

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