一般社団法人 日本新聞協会

立川談春さん
圧倒的なうまさで人気を集め、最もチケットが取りにくいと言われている実力派落語家。1984年に17歳で立川談志に入門。22歳で二ツ目、31歳で真打に昇進。独演会や落語会で全国各地を忙しく飛び回るなか、俳優として数々の人気ドラマや映画に出演するなど、多彩で意欲的な活躍を続けている。

立川談春さん
圧倒的なうまさで人気を集め、最もチケットが取りにくいと言われている実力派落語家。1984年に17歳で立川談志に入門。22歳で二ツ目、31歳で真打に昇進。独演会や落語会で全国各地を忙しく飛び回るなか、俳優として数々の人気ドラマや映画に出演するなど、多彩で意欲的な活躍を続けている。

17歳で立川談志に入門し、新聞配達で生計を立てながら修業をはじめたのは、俳優としても活躍する落語家の立川談春さん。新聞配達をはじめたきっかけや、新聞配達員だった頃の思い出についてお話を伺いました。

修行と両立できる仕事として新聞配達を選んだ

子どもの頃の将来の夢は競艇選手になることだったんです。しかし身長が養成所入所の基準を満たしておらず、その夢は絶たれました。当時は漫才ブームで、まわりは漫才の話で持ち切りでしたが、素直にブームに乗れずにいたところ、学校で読んだ落語全集が面白く、中学卒業間際に上野で聞いた落語、特に独特の毒舌で他とは違うオーラを放っていた立川談志の面白さに驚き、立川談志に入門することにしたんです。

父親に、談志に弟子入りするから高校を辞めると相談すると、これがまた、「権利に対しては義務がつきまとう」が得意のセリフってくらいの頑固者でしてね。「お前の人生だから好きにしていいけれど、高校卒業後なら援助をするが、2年で辞めるなら援助はしない」とぴしゃり。家を出たうえに談志に弟子入りも断られたらどうしようもないですから、寝床くらいは確保しとかなきゃいけないと、人生で初めてアルバイト求人情報誌を買いました。「落語の修行を続けながらできる、そんな都合のいい仕事なんてないよな……」なんて思いながら開いたら、あったんですよ、新聞配達が。朝晩新聞を配るだけで部屋に住まわせてくれて、かつ1日2食付きだなんて、当時の私にとってそんないい話はない。それで談志の家に行くより前に新聞販売店に行ったんです。

新聞配達に前向きになれた師匠の言葉

こうして新聞販売店の扉を叩いたわけですが、店主がまたいい人でね。目を血走らせながら「落語の修行がしたい」と話す変な少年を受け入れてくれたんですよ。本当は帰ってほしかったのかもしれませんが、そこは持ち前の押しの強さで何とか。それで談志のところに向かうと、「内弟子は取らない」と…。「修行するのはいいけれど、どうやって食っていく気だ」と問われましたが、こっちはもう新聞配達という手段を持っているわけですから。間髪をいれずに「新聞配達をします! 申し訳ありませんが朝刊と夕刊を配達する時間だけはください!」と返しました。

ここからのやりとりが談志らしいんですが、まず「いい時代だな」って言うんです。「俺の頃は貧しいことがばれたくないから、新聞とか牛乳は隠れて配達したもんだ。でも今は“頑張っている感心な青年”なんて言われるわけだろう。お前、いい時代に生まれたことを喜べよ」ってね。今思えば「何を言っているんだ」って話なんですが、そのときは妙に納得しましてね。「その通りだな、頑張ろう」と素直に言葉を受け入れました。そうして新聞配達をしながら生計を立て、談志のもとで修業する生活が始まったんです。

「落語が好き」という事実が日々の原動力に

新聞販売店には午前3時頃に新聞が届くんです。その新聞に折り込みチラシを挟み、4時くらいから配り始めるのが一般的。ただ、私は昔からしゃべりは達者だったんですが、手が本当に不器用でしてね。折り込みの作業が1時間経っても終わらない。みんなより配達のスタートが遅くなるものだから、配り終わるのも当然遅い。それに17歳で運転免許を持っていませんから、配達は自転車。しかも担当していたのが坂道の多い新興住宅地で、一軒家ばっかり。だから新聞がなかなか減らない。時々現れるマンションで一気に配れたときは嬉しかったなあ。「マンションありがてえ!」と思ったのは、後にも先にも新聞配達のときだけですよ。

毎日、自転車で坂道を上がっているわけですから、体重は驚くほど落ちましたし、当然寝不足も続いていましたが、それでも不思議とメンタルは健やかでね。しっかり配り終えるという達成感が精神的に良かったのでしょう。配達を終えて浴びたときのシャワーの爽快感は、今もよく覚えています。ちょうど世の中はバブルの真っただ中で、テレビをつければ同世代が海外旅行だ、夜遊びだって騒いでいましたが、何にもうらやましいことはありませんでした。好きなことをやっているんだから、大変なのは当たり前でしょって。毎日、毎日、好きなことのために全力でしたから、他人をどうこう思う暇もありませんでした。

あの時代に戻ったらまた新聞配達を選ぶ

半年くらいたったある日、師匠から「お前、そろそろ親のところに帰ったらどうだ」と言われ、実家に帰ることにしました。半年ほどしか経験していないのだから、新聞配達をやっている人に応援メッセージなんてたいそうなことは、ちょっと言いにくいのが正直なところだけど、でもそのたった半年間でも、僕らの世界では20年くらいやったようにしゃべっていいんですよ。たとえ短期間でも「やった」という事実がその後どれだけ自分を支えてくれるか、自分にとってメリットがあったのか、新聞配達を通じて知りました。今、あの時に戻っても当然、僕は新聞を配達しますよ。だって新聞奨学生制度ってよくできた制度じゃないですか。「若いって素晴らしい」ってみんな言うけれど、若さを取引材料として信頼は得られませんから。でも新聞配達はひとまず相手の可能性を信じて、仕事と寝床と食事を用意してくれるわけでしょう。こんないい制度、他にないですよ。

ただ落語もそうですが、新聞配達の未来もちょっと怪しいね。みんなあんまりやりたがらないでしょう。新聞を配るだけで好きなことができるのに、もったいないね。これは僕の自説なんですが、ブームが起きていないものは、種火が消えないから、意外と長く燃え続けるもの。そういう意味で落語は、そう簡単には消えませんよ。新聞配達も同じように、少しでも続いていくように、そして求めている人にしっかりと届くように、しぶとく一緒に頑張っていきましょう。

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