取材を振り返る〖寄稿〗

社会の狂気を象徴する傷痕【寄稿】

「『伝えていかねば』沖縄・渡嘉敷島 集団自決の生存者」受賞報告

毎日新聞社・喜屋武真之介氏

沖縄県名護市にある古いアパートの1室を訪ね、奥の部屋に通された瞬間、足がすくんだのを覚えている。目の前に座る小嶺達雄さん(88)の頭部には、78年前のものとは思えないほど、深く、生々しい傷痕が刻まれていた。その傷を付けたのは他でもない、彼の父親だ。木々が生い茂る山中で振り下ろされた棒は、達雄さんの頭蓋を砕き、生涯癒えることのない傷を負わせた。頭部には今も砕けた骨のかけらが残り、朝起きると枕が血でにじんでいることもあるという。

恐ろしい実態を知らせるために

喜屋武氏(毎日新聞社提供)

太平洋戦争末期、沖縄本島では日米両軍による激しい地上戦が繰り広げられ、巻き込まれた多くの住民が犠牲になった。その進攻の足がかりにするため米軍が先んじて上陸したのが、本島の西方約40キロメートルにある慶良間諸島だ。1945年3月26日に阿嘉、慶留間、座間味などの各島に、28日には渡嘉敷島に上陸。住民らによる、いわゆる「集団自決」が起こり、座間味島で177人、慶留間島で53人、達雄さんが暮らしていた渡嘉敷島では300人以上が犠牲になった。
当時は徹底した皇民化教育の下、国や天皇のために死ぬことが至上で、捕虜になることは恥とされた。また、日本軍は住民に「米軍に捕まれば残虐な方法で殺され、女性は辱めを受け殺される」などと教え、恐怖をあおっていた。そのような中で現実に米軍が迫り、日本軍が監視する逃げ場のない小さな島で追い詰められた住民の多くは、「死」以外の選択肢を考えられなくなっていた。

集団自決の犠牲者らが刻銘された「白玉之塔」を訪れた金城鶴子さん(94)。父に首を絞められ気を失ったが生き残り、目を覚ますと両親と姉2人は死んでいたという。「今年も来たよ。また来年も来るからね」と語りかけた=渡嘉敷村で2023年3月28日午前9時23分、喜屋武真之介氏撮影(毎日新聞社提供)

犠牲者の多くは子どもたちだ。島に残る大人たちが我が子らを米軍に殺させまいと手にかけ、最後は自らも命を絶った。敵同士が殺し合ったり、軍人が民間人を殺めたりする戦場の恐ろしさとは違い、思考の自由を奪われた住民たちの間で起きた惨劇は、戦時下の社会の恐ろしさを最も端的に表した出来事だろう。
しかし、その恐ろしさを伝えてきた人たちの訃報が、この1年余りの間に相次いだ。昨年7月には渡嘉敷島で母や弟妹を手にかけた経験を長年語り続けてきた金城重明さんが93歳で亡くなり、今年3月には「沖縄ノート」で集団自決を伝えたノーベル文学賞作家の大江健三郎さんが88歳でこの世を去った。
一方で、ある著名人が「高齢者は集団自決すればいい」などと語り、話題になった。その発言の意図するところ以上に、戦争とは全く関係のない文脈で「集団自決」という言葉が使われたことに驚きを覚えた。戦争を知る世代がいずれいなくなることは避けられないが、「集団自決」の実態は多くの人に知ってほしい。そんな思いで取材を始めた。

体験者への取材に苦慮

今回の企画では当初、沖縄本島の読谷村にある自然洞窟「チビチリガマ」の生存者も取り上げる予定だった。この場所は45年4月1日の米軍上陸地点に近く、翌2日に80人以上が犠牲になる集団自決が起きている。犠牲者を出すに至るまでの状況は渡嘉敷島とはまた異なっており、より多くの人を取り上げることで多角的に集団自決を伝えることができると考えたからだ。
しかし、地元紙の過去記事などを頼りに生存者を探し訪ねると、すでに鬼籍に入っていたり、体力や認知機能の低下で家族に取材を断られたりすることが続いた。実際、今年4月に開かれた慰霊祭には初めて生存者が1人も参列せず、時代の変わり目に来ていることを感じずにはいられなかった。
一方、渡嘉敷島には今年3月、慰霊祭の2日前に船で渡り、生存者を探した。幸い、事前にアポイントが取れていた人も含めて何人かと会うことができ、さらに慰霊祭本番では本島から参加した生存者にも会え、後日の追加取材の了解を得ることができた。報道陣が集まる慰霊祭ではなく、落ち着いた環境で話を伺い、撮影がしたかったからだ。そしてこの時、「頭に傷のある生き残りのおじがいる」と語る遺族とも出会った。この人が小嶺達雄さんのおいだった。
実は、達雄さんの写真が撮れない可能性も高かった。その直後、沖縄・宮古島で自衛隊ヘリが行方不明になり、急きょ現地入りすることになったからだ。一時的に本島に帰れるタイミングはあったものの、ヘリの捜索などが難航して先行きの見えないまま出張が長期化し、思うように企画の取材は進められなかった。達雄さんに会うことができたのは、締め切りの1日前だった。

死に追い立てられた現場

集団自決が起きた島の山中。足の踏み場もないほど、多くの島民たちが息絶えていたという=沖縄県渡嘉敷村で2023年3月27日午後1時32分、喜屋武真之介氏撮影(毎日新聞社提供)

達雄さんに会った時の衝撃は冒頭に書いた通りだが、その壮絶な体験とその後の過酷な人生にも少し触れたい。渡嘉敷島に米軍が迫ると、住民たちは山中に逃げ込み、標高200メートルほどの「北山」の山頂に近い谷間に集められた。当時10歳だった達雄さんも両親と姉、長兄の妻やその子どもたちと一緒に必死に山を登ったという。
「集団自決」が始まったのは、米軍上陸から一夜が開けた45年3月28日、村長による「天皇陛下万歳」の三唱が合図だった。一部の住民は事前に日本軍から配られていた自決用の手投げ弾を囲み、炸裂させた。しかし不発も多く、住民は死に追い立てられるように次の手段に移っていく。ある人は鎌や鍬などの農具を使い、ある人は周りにある石や木を凶器に変えた。ひもや自らの手で、肉親の首を絞める人もいた。
達雄さんもまた、大人たちと「万歳」を繰り返した後、父の命令で家族と円を作るようにして座った。その家族を、父は木を削って作った棒で力一杯殴りつけていく。その棒が折れればまた木を削り、最初に殴られた母は頭から血を吹き出し、顔から地面に崩れ落ちた。しかし一撃では絶命せず、少しして意識を取り戻し起き上がろうとしたところを、父が再び棒を振り下ろしてとどめを刺したという。
その様子を達雄さんは黙って見ていた。「全然怖くなかったよ」。78年を経て振り返る言葉が、当時の感情とどれほど一致しているのかはわからない。記憶があいまいな部分もある。ただ、その異常な光景を当時10歳の子どもが当然のこととして受け止め、逃げ出すことなく自分の死が訪れる順番を待っていたことに、当時の社会の狂気を垣間見た気がした。
当時の「ニューヨーク・タイムズ」は、集団自決後の現場に足を踏み入れた米兵の証言を紹介している。「そこは死者と死を急ぐ者たちの修羅場だった。この世で目にした最も痛ましい光景だった。ただ聞こえてくるのは瀕死の子どものたちの泣き声だけだった」。そのような状況からの生還が奇跡的だったのは、達雄さんの傷を見れば明らかだろう。
達雄さんは父に殴られた後に米軍に救出され、隣の座間味島に作られた米軍の施設で意識を取り戻した。治療は施されていたものの、頭は倍ほどに膨れ上がっていたという。しばらくして渡嘉敷島に戻ると、家族で達雄さん以外に生き残ったのは姉といとこの2人だけ。父も最後は自ら首をつり、命を絶っていた。
九死に一生を得た達雄さんだが、その後の生活は厳しかった。戦時中に南洋などに徴兵されていた兄たちが生きて帰ってきたため、達雄さんは彼らを頼った。しかし、年の離れた兄たちとの暮らしはうまくいかないことも多く、時に家を飛び出して野宿し、食べ物に困れば畑から農作物を盗んで食べたこともあった。
頭の傷も米軍の保護下を離れた後は満足な治療を受けられず、拾ったぼろ切れを包帯代わりにし、膿んだりウジがわいたりすることもあった。学校では頭をからかわれるたび喧嘩になり、そのころから現在まで人前に出る時は帽子を欠かさず、仕事も帽子をかぶったままできる職場を転々としてきたという。「惨めでね。今でもお酒を飲むと思い出して涙がボロボロ出る」。言葉を詰まらせてそう語る姿は、今なお「戦争」が彼の人生を縛り続けていることを伝えていた。

過去を表現する難しさ

「頭の傷を撮らせていただいてもいいですか」。一通り話を聞き終え、そう切り出したときは内心緊張していた。話を聞けば聞くほど目の前に刻まれた傷の重みは増し、それが読者に伝わる写真を撮らなければいけない重圧を感じていたからだ。「今」の一瞬を写真で切り取るという手段で78年前の出来事を表現する難しさは、沖縄に着任してからの2年間で常々感じていた。

当時は小学校入学直前でランドセルを背負い山中に逃げた吉川嘉勝さん(84)。周りで集団自決が起こったとき、母が「逃げなさい。『命(ぬち)どぅ宝』だよ」と家族を思いとどまらせたという。長年語り部を続けており、「同じようなことを起こさないためにはどうしたらいいのか。若い人たちは主体的に考えてほしい」と願う=渡嘉敷村で2023年3月27日午前11時17分、喜屋武真之介氏撮影(毎日新聞社提供)

達雄さんは取材に快く応じてくれていた一方、耳が遠く足腰も弱っていたため、撮影のためにいろいろとお願いすることは難しかった。聞き取りに時間をかけていたため、心身の疲れも心配だった。ベランダから差し込む自然光をいかしつつ、背景だけが影になる場所に少しだけ移動してもらい、写真にした時に傷と表情に視線が集まるよう工夫した。レンズはあれこれ試さず、50ミリの単焦点にした。数パターン撮ったが、結局はシンプルな写真が最も力強かった。それがベストだったかどうかはわからない。ただ、思いを受け止め、賞に選んでくださった審査員の皆様には深く感謝申し上げたい。
戦争を知る世代は近い将来いなくなる。それまでどう伝え、その先どう伝えるか。戦争報道に携わる多くの方が考えていることだろう。沖縄では地元紙などが一年を通じて戦争体験者の証言などきめ細かく報じ続けており、いつも学ばせてもらっている。社会が変わり、国際情勢が変わっても、人の本質は大きくは変わらないからこそ、過去に学び、人を知ることは再び悲劇を繰り返させないためにとても大切なことだと思う。その役割の一端を、これからも担っていきたい。

<筆者プロフィール>

毎日新聞社
西部本社編集局写真部兼那覇支局

喜屋武真之介(きゃん・しんのすけ)氏

(2023年10月11日)