当事者目線で部落差別伝える【寄稿】
「人権新時代」受賞報告
「部落差別ってまだあるの?」。部落問題を取材していると知人に言うと、首をかしげられることが少なくない。部落差別は今もなお存在する。形を変え、見えにくくなっているだけだ。
2022年、日本の人権運動の礎となった「全国水平社」が被差別部落出身者によって創立されてから100年を迎えた。長期企画「人権新時代」は、あらためて現代の部落問題の実態に迫ることから始めた。私たち西日本新聞の記者には、全力を傾ける理由があった。
ミカン箱の「識字学級」

かつて、地域でも学校でも職場でも、あからさまな部落差別が横行していた。「まだあるの?」と感じる人が増えたのは、当事者を中心とした地域の地道な活動が直接的な差別や偏見を減らしてきたからだ。1980~81年の当紙の企画「君よ太陽に語れ——差別と人権を考える」に、その一端が描かれている。
今から約60年前。福岡県のある被差別部落で「識字学級」が始まった。差別と貧困で満足に就学できなかった住民たちがミカン箱を机に、ひらがなの読み書きから学んだ。
最初の「教科書」は、指導を頼まれた中学教師が画用紙に描いた動物や野菜の絵。「これは何?」と教師が尋ねると、受講者たちが「れんこーん」と答え、「れ」「ん」とひらがなを一字ずつ習っていく。「わしゃ絵がヘタ」という教師。ウサギの絵が「タヌキ」に間違われることもあった。「先生、点が一つ多いばい」。学校からもらってきた古い黒板には穴が空いていて、文字の「点」に見えた。

受講者の自宅で午後7時に始まる識字学級は、未明まで続くことがほとんどだった。教師は妻から不審の目で見られるようになった。「家庭を破壊する気ですか」となじられ「字を知らん町内の母ちゃんたちに字ば教えとる」と説明しても、なかなか納得を得られなかった。
教師は年賀状を書いてくれるよう、〝生徒〟たちに頼んだ。「年賀状やら書いて出すとは初めてばい。うれしか」。住民たちは、一も二もなく賛成した。元旦、教師の自宅に年賀状がドサッと届いた。上手とは言えない文字。「せんせい、おせわになりました。字をしらなかったわたしたちが、すこしかけるようになりました。おくさまにはごめいわくをかけました」
「まごころが、ゆがんだ行間にあふれていた」と、当時の記者は書いている。年賀状を見た教師の妻は、部落問題に積極的に関わるようになったという。
タブー視されていた部落問題を真正面から取り上げ、結婚や教育現場での差別、行政や市民意識のひずみを描き出した企画は、81年度の新聞協会賞を受賞した。
〝伝統〟を引き継いで
「君よ太陽に語れ」は、取材や執筆に慎重を要するからといって人権問題を避けることなく「人権は書いて守る」という姿勢を後輩記者たちに植え付けた。
当紙は92年にシリーズ「事件報道の改革『福岡の実験』——容疑者の言い分掲載」を開始。容疑を否認している容疑者の主張を掲載する試みを全国に先駆けて行い、新聞協会賞を受けた。
98年には「犯罪被害者の人権」に光を当て、2011年からは刑事司法制度全体を題材とした「罪と更生」に取り組んだ。記者の基本姿勢を示す「人権報道の基本」は改訂を繰り返し、今も定期的に記者研修会を開いている。
全国水平社の創立から100年の節目を迎えた22年。当事者自身が声を上げて社会を変えようとした水平社の理念は、現代のさまざまな人権運動にも引き継がれている。人権報道に改めて注力するべき機会であることは、当紙にとって自明だった。
私は15年に、7年後に控える水平社100年の節目を意識し始めた。先輩記者たちと共に取り組んだ戦後70年の長期企画「安全保障を考える」が一段落し、次に全力を傾ける題材を自分なりに考えていたときだった。社会部遊軍で人権を担当した経験もあった。同僚たちに「絶対やろう」と声をかけた。
後に取材班に加わるメンバーも、それぞれに構想を温めていた。
森亮輔記者は、大学時代に友人を通じて部落問題に関心を持った。当紙に中途入社したのは13年。「君よ太陽に語れ」などの過去の企画を知った上で「ここなら水平社100年を全力で書けるはず」と考えたからだという。以降も関連取材を続けてきた。
山口新太郎記者は被差別部落の多い福岡県内でさまざまな取材を続けるうち、当然の知識として部落問題を学んでいた。この2人が専従となった。
そして、自身が被差別部落出身である西田昌矢記者。入社直後の18年、先輩記者から「水平社100年」の構想を熱心に語られ、「やりたいです。私もそういうところの生まれですから」と思わず答えた。周囲に隠し通してきた出自をその時、なぜ明かしたのか。うまく説明できない、と西田記者は振り返る。「4年も先のテーマを語る先輩と一緒に何かやりたい、と強く思ったことは覚えています」という。
「『普通』の場所で暮らして」
21年の夏から、準備を本格化させた。書籍や論文を読み、人に会って話を聞き、成果と課題を持ち帰って整理し、再び現場に向かうという基本動作を繰り返した。
企画の中核の一つが、西田記者がルーツを明かして等身大の部落問題に向き合う連載だった。「私は部落から逃げてきたんです」という28歳の半生は、今の世代も差別への不安を抱えているという現状を浮き彫りにしていた。
西田記者は小学生の頃、地域の先輩から結婚差別の体験談を聞いた。その時の言葉が胸に焼き付いた。「部落の血が混ざると穢れる、と言われたんです」。子どもが言えば怒られるような言葉を大人が大人に向けて放ったことが信じられなかった。友人の祖母から「部落の子なのに賢いね」と言われたのが決定的だった。「ヤバい」。部落差別は昔の話なんかじゃない。自分だってどうなるか分からない。故郷から遠く離れた大学に進学した。学生が見ていたパソコン画面に目をやると、「部落」の文字が見えた。部落であろう地域を映した動画だった。
自らの半生を見つめながら、身近な人にも話を聞いた。家族と部落問題を語り合うのは初めてだったという。姉は「部落のことは付き合う人には言ってるで」と話した。自慢の姉でも、そんなふうに気にしていたことに少し驚いた。
優しいはずの母は、部落問題自体を語りたがらなかった。
「あんたが差別のターゲットにならんか」「あんたには部落じゃない『普通』の場所で暮らしてほしい」
息子が書こうとする記事の意義を十分に分かりながら、絞り出すように吐露した母の言葉は、部落問題の重さを示していた。
ひとたび紙面で出自を明かせば、差別や偏見を含めてどんな反応があるか分からない。専従記者の2人も、西田記者を全面的にバックアップした。ルーツを公表して講演活動などを行っている被差別部落出身者らにカミングアウトの経緯や被差別体験などを尋ね、リスクを軽減する方策を練った。数十回にわたって打ち合わせを行い、記事が独りよがりに響かないよう、原稿の組み立て方や書きぶりもさまざまに議論した。
ありのまま描き理解と共感を

部落問題の実態に迫るならば、必ず取り上げなければならないテーマがあった。デジタル時代に横行する差別の現状と、部落差別と闘う運動の課題や展望だ。
16年、全国約5千の被差別部落の地名や場所の一覧がインターネット上にさらされた。各地の被差別部落出身者たちは、公開した出版社代表の男性を提訴。男性は真っ向から争う姿勢を示しており、法廷闘争が続いている。当事者の同意もないまま情報が瞬時に拡散し、削除することも容易ではない現代の部落差別を象徴する問題と言える。
裁判の書面を読み込み、準備を重ねた上で、公開に反対する当事者や団体はもちろん、リストを公開した男性にも直接取材をした。問題を取り上げたり、男性の発言を説明したりすること自体が「差別の宣伝になる」「差別を助長する」と批判されかねなかったが、議論の末に「人権は書いて守る」に立ち戻って掲載を決めた。

部落差別と闘ってきた当事者たちの運動は、あからさまで直接的な差別や偏見を大きく減らしてきた。一方、成果は新たな課題も生んだ。出身者は地区外に転出しやすくなり、逆に被差別部落に移り住む人も増加。部落問題はかつてに比べて分かりにくくなり、運動に参加する出身者は減った。
時に激し過ぎた活動や不祥事が社会に植え付けた悪印象も根強い。当初から、そうした運動の課題や「負」の側面をどう取り上げるかが、長期企画全体の最大の課題だった。受け止められ方によっては、当事者の活動に水を差し、必要以上にマイナスイメージを広げかねない。
現場を回ると、変革を目指して模索を続ける街もあれば、後継者不足で活動継続を断念するところも、いまだに不祥事が起きている地域もあった。課題も真正面から書いてこそ、成果や展望への理解と共感が広がるはずだと考え、ありのままを描いた。
取材班は200人以上の被差別部落出身者に話を聞いてきた。私たちなりに時間をかけて丁寧に取材してきたことが、書くべきか、どう書くかを決める最大の根拠となった。
企画を始めて以来取材班には、自治体や教育機関などから少なくない講演依頼が寄せられている。特に西田記者には要望が相次ぎ、1年余りの間に40か所近くで登壇した。
一連の企画には計30人以上の記者とデスクが参加。ジェンダーや同性婚、中国・新疆ウイグル自治区やミャンマーなどの人権弾圧も取り上げた。ビジネスや文化、スポーツなど、多様なテーマの当事者や専門家に聞くインタビューも掲載した。
もちろん、描けてきたのは、人権課題のごく一部に過ぎない。「君よ太陽に語れ」の取材班は、新聞協会賞を受けた後に「賞をいただいたという喜びより、むしろ自らに課した宿題の重みをひしひしと感じる」と書いた。私たちも同じ思いを抱いている。
<筆者プロフィール>

西日本新聞社
「人権新時代」取材班
(代表)編集局報道センター社会部次長
中原興平(なかはら・こうへい)氏
(2023年10月11日)