最優秀賞
小さな涙
「お客様にはいつも笑顔で」
(朝日新聞社提供)
配達当初、ただただ苦しかった猛暑、寒さ、台風、雷も、15年も月日が流れると、自然からのいたずらだとそれを楽しむ余裕もできました。配達をしていると、移りゆく景色、人々の生活などさまざまなものが見えてきます。そんな中、子供さんの成長はとても心が和みます。
何年か前、お客様のお宅に男の子のお孫さんが生まれました。その子が歩くようになると、いつも出迎えてくれていました。
ある時、おばあさまが私に「この子、新聞屋さんが来るのを毎日待ってるんだよ。他の人じゃ駄目でねえ、お姉さんじゃないと……」と話してくれました。とてもうれしくなり、それから2、3年間でその小さな彼ととても仲良しになりました。
私が区域異動となり、最後のごあいさつに伺ったとき、彼が「寂しい」と言って涙をポロポロ流してくれたときには、配達冥利に尽きる思いでいっぱいでした。そんなお客様とのふれあいを大切に、これからも頑張っていきたいと思います。
「お客様にはいつも笑顔で」
(朝日新聞社提供)
審査員特別賞
二人で仲良く半分こ
「今日も足を使って一軒一軒丁寧に」
(中日新聞社提供)
お母さん、元気に配達していますか? 新聞配達をしていたお母さんが少しでも楽になるようにと、私が配達を始めたのは高校生の時だったね。
深夜目を覚まし、真っ暗な世界へ出かけていく。まだ誰も読んでいない、印刷のインクのにおいのする新聞を手際よく自転車の荷台に積んではワクワクしたのを覚えています。
お母さんは私に一つ一つ丁寧に教えてくれたね。「この家は3つ折りにして入れるのよ」「ここはポトンと家の中に落としきるのよ」。まるで学校の暗記テストのように必死で覚えたよ。慣れてくると、私の担当エリアを作ってくれたね。二人で仲良く半分こして配達。
私は現在結婚し、実家を離れています。なんと! 私の代わりに、お父さんが一緒に配達をしているとのこと。
今でも二人で仲良く半分こ! これからも体に気を付けてね。ありがとう!
「今日も足を使って一軒一軒丁寧に」
(中日新聞社提供)
優秀賞
あの日の新聞
「いつも安全運転を心掛けています」
(河北新報社提供)
「こんな非常時でも、新聞を届けてくれるんだ」
私は震える手で紙面を握り締め一気に読んだ。大見出しが甚大な被害状況を克明に伝えていた。ライフラインが止まり、明日の生活の見通しすら立たない状況の中、新聞が読めることに罪悪感すらあった。
知人が亡くなった。今、起こっている事実を淡々と伝える紙面は時に冷酷だと恨んだ。やり場のない怒り。なすすべもない絶望感に心が折れそうになった。
それでも、震災直後のあの日、紙面に携わる一人一人が打ちひしがれた現実を直視し、苦虫をかみつぶす思いで必死に届けてくれた、思いの詰まった新聞。それが私にはとても重く、ありがたかった。量にしてわずか数枚程度だったが、気骨の職人気質、伝えたい使命感にあふれた紙面の内容に心を強く揺さぶられ、勇気をもらった。
時を経た今でも、あの日の新聞を忘れることができない。
「いつも安全運転を心掛けています」
(河北新報社提供)
入選(7編)
娘の日課
「朝刊をバイクに積み込み」
(山梨日日新聞社提供)
私が新聞配達を始めて、娘の日課になったことがあります。毎日の天気予報のチェックです。雨の日は、「お母さん、明日は雨だよ。カッパ忘れないでね」と教えてくれます。「教えてくれてありがとう」と、私の日課で、娘をぎゅうっと抱きしめます。
ある日、愛知県に台風が接近していました。大雨、暴風警報がでています。夕方のニュースで暴風域に入った地域の映像が流れています。娘が慌てて「お母さん、台風だよ。お母さんが台風で飛ばされちゃうと大変だから、てるてる坊主を作ったよ」と小さな手で作った、ニコニコ笑顔の小さなてるてる坊主を持ってきました。私のことを思って一生懸命作ったんだと思うと、いつも以上に娘がいとおしく感じ、「ありがとう」とぎゅうっと、抱きしめました。娘の優しい気持ちにふれて、心がほっこりしました。この子のためなら何でも頑張れる。母は強し。
雨の日、雪の日、風の強い日は配達の天敵で、心が折れそうな日もありますが、新聞を届けるという使命を持って、「母は強し」で、今日も頑張ります。
「朝刊をバイクに積み込み」
(山梨日日新聞社提供)
規則的な一瞬
「ちょっと寄って行ってください」
(毎日新聞社提供)
息子が取材を受けた記事が、その日の夕刊に載りますと連絡をいただいた。販売店の場所の確認のため、店に電話をかけた。
「2時35分に来てください」
2時半くらい、ではなく35分、というのが印象的だった。早く記事が見たくて、30分より少し前に到着した。
販売店の前にはバイクや自転車、そして同じ方向を見ている人達。「今日は風が強いけ、時間通りに配れるか分からんなあ、がんばらんと」
そして2時35分、来た! 軽トラックがすーっと店の前へ。みんなが荷台から束ねた新聞をどんどん下ろす、ひもをほどく、分けるその間に素早く私に、5部渡してくれた。そして次々と出動して行った。
朝は5時、夕方は3時にわが家のポストはカタンと鳴る。その規則的な一瞬は、販売店、もっと前の工程から、きっちりと続いていることを知った。帰りは少し、早足になった。
「ちょっと寄って行ってください」
(毎日新聞社提供)
雨でぬれた新聞に感謝
「住民帰還の拠点・浪江町災害公営住宅
での配達」
(福島民友新聞社提供)
土砂降りの天候が続いた日の朝であった。
妻が、「雨でぬれた新聞」を持参し、食卓で待っていた。私は、その新聞を見ながらほほ笑んで、「わが家が選ばれたか」とつぶやいた。妻は、不思議そうな表情で耳を傾けていた。
「実は、僕も中学生のときに、雨でぬれた新聞をやむを得ず配達した経験があるよ。どの家にその新聞を配達するか迷ったが、理解していただけそうな家を選んだ。『すみません』と書いたメモを付けてね」
「その家の人は、怒った?」と妻が問うた。
「翌朝、新聞受けに『昨日は、配達頑張ってくれてありがとう!』のメモがあったよ。
その時、僕も働く人の気持ちを理解できる大人になろう、頑張っている人に感謝の言葉をかけようと決めた」と妻を見て答えた。
妻は、笑顔で立ち上がり、朝食の支度を始めた。後ろ姿が軽やかでうれしそうに見えた。
私は、半世紀前のことを鮮明に思い出し、「雨でぬれた新聞」に心から感謝をした。
「住民帰還の拠点・浪江町災害公営住宅にて」
(福島民友新聞社提供) )
言えなかったありがとう
「さあ、出発だ」
(信濃毎日新聞社提供)
もう30年も前のこと、当時2歳の女の子を助けてくださった新聞配達員さんにお礼を言えぬままです。
その頃訳あって、主人が突然家を出て行き、私は3人の子を抱え途方に暮れていました。母親の不安定な精神状態は、子供にも伝わるようで、ある嵐の明け方に末娘が私を探し求め、外に出て行ったのでした。
運よく新聞配達員の方が見つけてくださったのですが、どこの家の子か分かりません。まだ配達が残っているので早起きのご家庭を探して預けてくださいました。その時助けてもらえなければ、もしかしたら命さえなかったかもしれませんし、どこかに連れさられたかもしれません。そのことがあってから、私も母親として、しっかりしなければと生きる覚悟ができました。
当時きちんとごあいさつできなかったことを今でも申し訳なく思っています。
名も知らぬあなたは娘の命の恩人です。本当にありがとうございました。
「さあ、出発だ」
(信濃毎日新聞社提供)
新聞配達に支えられた就活
「紙分けの風景」
(山梨日日新聞社提供)
就職活動を機に、新聞をとりはじめた。就活が本格化し、仙台から東京へ泊まりで行くことが増えると、アパートの小さなポストには二日分の新聞がきゅっとつまっていたこともあった。
3週間ほど家を空けて戻るとたくさんたまっているはずの新聞はなく、大家さんの書き置きがあった。もしかして廊下に新聞があふれて迷惑になったか……。大家さんに一声かけるべきだったな……。
不安を胸に大家さんを訪ねると3週間分の新聞が入った袋をもらった。「配達員さんがくれたのよ、大丈夫ですかね?ってあなたのこと心配してたわ。新聞がたまると留守だと分かっちゃうからって」。
配達員さんの心遣いに驚いた。就活の不安な時期に思わぬ形で配達員さんの優しさに触れ、その後新聞を読みながらわんわん泣いた。
配達員さんの優しさは未熟な私にとって大きな心の支えになった。以来、無事に社会人となった今も新聞を読み続けている。購読し続けることで配達員さんに少しでも恩返ししたい。
「紙分けの風景」
(山梨日日新聞社提供)
新聞奨学生制度に感謝
「だんだん慣れてきました」
(東京新聞提供)
忍び足で外階段を上がってくる。ポストの音にも気を使っている。来た来た。私の一日は新聞から始まる。
私が教師を目指したのは、小学校と高校での先生との出会いだ。こんな先生になりたいと思った。しかしわが家は貧しく、大学に行ける余裕はなかった。そんな時に、新聞奨学生制度を知った。学費と生活費のすべてが賄えた。おまけに特待生になったので学費がすべて収入となった。おかげで、卒業時には100万円ため、車も購入した。
卒業後、教師になり、38年間の充実した教職生活を終えることができた。退職の年には県公立中学校長会長を務め、また、3年生の全5クラスで当日の新聞をつかって最後の授業をすることができた。
こうして夢を実現することができたのは、新聞奨学生制度のおかげである。今もその制度はあるのだろうか。貧しくて大学進学をあきらめている青年諸君に是非とも夢と希望を与えてほしい。朝の、あの忍び足の人、会ったことはないけど、私の青春時代を思い出しながら、いつも感謝している。
「だんだん慣れてきました」
(東京新聞提供)
真心を込めて
「夕刊どうぞ」
(西日本新聞社提供)
母の新聞配達歴は、もうじき30年だ。
小学生の頃、よく配達について行った。「健康でいられるのは配達のおかげ。できる限り長く続けたいな」と話していたのが印象的だ。
豪雨や雪のとき、朝早く目が覚めて母を心配した。自転車で転んだり、事故に遭ったりしていないか居ても立ってもいられなくなるのだ。
なかなか配達から戻ってこないと、心配する気持ちは強くなる。玄関のドアが開く音が聞こえ、ほっとして眠りにつくことは何度もあった。
家の近所を一緒に歩くと、「いつも配達ありがとうございます」と声をかけられることが多い。一軒一軒真心込めて配達しているからこそ、感謝されるのだろう。
新聞は、メッセージを心待ちにする人への手紙のようなものだと思う。購読者一人一人を思い浮かべながら、今日も母は「手紙」を届けている。
「夕刊どうぞ」
(西日本新聞社提供)
最優秀賞
病室まで届く新聞
「笑顔でごあいさつ」
(河北新報社提供)
「新聞どうですか」
聞き慣れない声。そして、今まで経験したことのないような重い体の私。私は今、どこにいるのだろう……と思いながら、また眠ってしまった。
そして翌日。もう一度「新聞どうですか」
今度は、ハッキリと聞こえた。
昨年、私は急に体調を崩して入院し、手術をした。このとき、病院にも新聞配達員の方が来てくれることを知り、私はうれしくなった。歩けるようになり、歩行器を押しながら病室の扉を開けた。
「おはよう。元気になったんですね」と、優しく声を掛けてくれた。それから毎朝、退院するまで、病室で新聞を心待ちにする私がいた。いつものように、家で読む新聞とは違い、健康であるありがたさを感じながら読むことができた。
日ごとに元気になる私を喜んでくれた配達員の方。その優しさが私の支えとなり、新たな命の息吹を感じた。
新聞と共に真心を届けてくれたこと。忘れはしない。
「笑顔でごあいさつ」
(河北新報社提供)
審査員特別賞
今日も届ける
「長崎眼鏡橋」
(長崎新聞社提供)
僕の仕事は新聞配達。入ったばかりのころは店の掃除やチラシの折り込みといった雑用が中心だったけれども、この春、ようやく夕刊の配達に回ることができた。
僕の相方はオレンジ色の、ちょっと古い自転車。古いけれども、汚くはない。雨の日はたいへんで雷は怖い。けれども、それ以上に風の強い日はもっとつらい。僕の住む群馬県は「空っ風」といって、都会では考えられないような強い風が吹く。新聞の重みで、もうだめだと思うこともある。けれども、お客様やお給料を渡して喜ぶ家族の顔を見るのはうれしい。それに何より、職場の人たちが温かい。一番下の僕に優しくしてくれる。
昼間の学校の生徒と行き違うように、僕は校門をくぐる。僕は定時制高校の2年生。好きな科目は情報処理と簿記。将来はプログラミングの技術を習得し、プログラマーになる。家族を養えるようになりたいから。
新聞少年。僕はまさにそれ。そして、今日も届ける。
「長崎眼鏡橋」
(長崎新聞社提供)
優秀賞
配達の絆
「こちら、新聞販売店です」
(毎日新聞社提供)
ここは自然に囲まれた水田地帯。
さかのぼること数年前、私が初めて新聞配達を行った日のことだ。前任者のおばあちゃんが筆で書いた地図を見ながら配達を始める。普通は静かに配達を行うが、この集落は少し違う。なぜなら配達先は日の出と共に働きだす農家だからだ。薄暗い中、ポストに新聞を入れると「今日からよろしく」と笑顔で出迎えてくれた。驚く中、私もつられて「おはようございます」とあいさつを交わした。このやりとりが集落での日常。
時にあいさつが聞こえない時は「体調くずしたのかな」と不安になり、逆に私が配達を休むと「昨日はどうしたの?」と心配されたり。
「おはよう」「ありがとう」のささいな言葉がこの仕事の楽しみになり、人とつながることが苦手だった私を変えてくれた。
たった6軒の新聞配達は、私と他者をつないでくれる絆のバトン。今日もあいさつと共に新聞を配り、一日のスタートを切る。みんなにとって良い日でありますようにと。
「こちら、新聞販売店です」
(毎日新聞社提供)
入選(7編)
地域の輪を広げるキーマン
「爽やかな海岸沿いの配達」
(デーリー東北新聞社提供)
私の祖母はおしゃべりだ。だから、家を訪問する石油屋のお兄さん、水の配達のお兄さんとすぐに話が始まる。新聞配達のおばちゃんもその一人だ。
先日、祖母が話をしてくれた。新聞配達のおばちゃんは朝早く配達しているとき、度々財布を拾うそうだ。全て交番に届けているが、そのうちの一つが祖母の友達のおばあちゃんのものだったらしい。そこで友達のおばあちゃんは、新聞配達のおばちゃんにお礼がしたくて電話番号を祖母に聞いたらしい。祖母いわく、「あの人が新聞配達をしていて良かったさ。毎日朝早く新聞配達をしてるから、細かいことに気が配れるんだよ」と。新聞配達の仕事は新聞を配るだけじゃない。心配りも大切なんだ。
この話を聞き、新聞配達は新聞を配る以上の価値がある。地域の輪が広がる一つのキーマンであるんだと思った。学校の先生や医者のように、表立つ仕事じゃないけれど、私達の生活に欠かせない素晴らしい仕事なんだ。
「爽やかな海岸沿いの配達」
(デーリー東北新聞社提供)
私の誇り
「津波被害の大きかった請戸地区を車で配達」
(福島民友新聞社提供)
新深夜3時、玄関からバイクの音。祖父が新聞配達に行く。ふとんの中で音が遠ざかり、また眠る。朝だ。すでに朝食とお弁当が食卓に。祖父と妹と私で3人の生活。一日が始まる。
新聞店の食事会で祖父が表彰され、また、ケーキバイキング会とか。店の人の「何でも相談してね」の言葉がうれしかった。いつも賞品をもらう祖父、私と妹の自慢の祖父だ。「体力がある限り配達する」と言えることはすごい。
私は勉強が嫌い。でも部活と読書、何よりも友達がいるから登校する。時々お弁当を見て少し反省したり、申し訳ないと思う。
この前、夕食時に祖父から将来について聞かれ、未定と答えた。4年生の妹は、祖父と配達する、と。祖父が吹き出して大声で笑った。障害のある妹はそれが普通の答えだと思う。私には頑張る祖父がいてかわいい妹がいる。そんな家族が一番いい。私の誇りだ。おじいちゃん、健康で長生きして、新聞配達頑張ってね。
「津波被害の大きかった請戸地区を車で配達」
(福島民友新聞社提供)
プロフェッショナル
「雪をかき分け、新聞を待つ読者のもとへ」
(福井新聞社提供)
2018年1月、富山で大雪が降り、初めて休校になった。普段より遅れてはいたが、この日新聞は届いた。父は会社まで2時間かかったと言っていたので、配達員さんは一体何時に出たのだろう。
2月6日、前回以上の大雪が降り、父母は車を雪の塊から発掘するため4時から雪かきを始めた。さすがに新聞は来ないだろうなと思いながら手伝っていると、薄暗い深い雪の中からパーッと一筋の車のライトが光った。配達員さんが降りて膝上まで雪があるわが家のポストに向かって歩いてきた。
「もらいます」。ポストまで来てもらうのが申し訳ないので慌てて駆け寄った。
「いいですか」と言って手渡してくれた新聞はぬれないようビニールで包まれていた。交わした言葉はたった一言だったが、配達員さんの仕事への情熱と誇りが受け取った新聞からひしひしと伝わってきた。まさしくプロだ! 大雪の朝、届けられた新聞はプロの仕事を教えてくれた特別な新聞だった。
「雪をかき分け、新聞を待つ読者のもとへ」
(福井新聞社提供)
決まった時間に届く幸せ
「新聞カートでエコ配達」
(中日新聞社提供)
私はよく海外旅行に行く。父が生粋の旅行好きでいつも私を同行させる。今まで5か国ほど訪れたが、おのおのの国でさまざまな違いを発見する。そして日本に住むことの幸せを感じる。
幸せを紹介しよう。ある海外の国で早朝に、外の空気を吸おうと外出した時のことだ。交通量の少ない中、一台の車がゆっくりと走っている。見慣れない車の窓からビニール袋に入った新聞を家に向かって投げる人がいる。この光景に私は衝撃を受けた。実情を聞くと、新聞はその国では雑に扱われていたり、届く時間が異なっていたりするらしい。
私の家では、朝3時過ぎには軽やかな音を伴ってポストに投函される。私は毎朝、新聞を5分間読むことを日課としている。少しの時間、集中して読むことを継続すると、家族、友達、地域の人とのコミュニケーションの幅が広がる。新聞からは大きな恩恵を授かっている。
毎日決まった時間に届き、自分の生活リズムに合わせてくれる幸せ。あらためて、新聞の可能性は「無限大」だと私は実感する。
「新聞カートでエコ配達」
(中日新聞社提供)
祖母と新聞
「印刷工場を見学」
(信濃毎日新聞社提供)
夜が明けきらない中、「ブーン、カタン」。新聞配達の音で街が目覚める。毎日繰り返されるこのリズムが、私達が平和であることを感じる瞬間。そしてこの配達を心待ちにしている多くの人々がいる。私の祖母もその一人だ。
祖母の一日は新聞から始まる。熱いコーヒーを入れて新聞をじっくり読む。隅から隅まで目を通した後、自分の興味のある記事を切り抜く。そしてその記事を部屋のあちらこちらに貼る。トイレには便秘にならないためのポーズ、台所には料理レシピ、玄関には振り込め詐欺対策など多種多様で、家中が最新の記事であふれている。そして何でも知っている祖母がとてもかわいく感じる。
地方の年配者にとって新聞こそが社会とのつながりであり、コミュニケーションなのである。毎日の配達は大変だとは思うが、毎日届く新聞があるからこそ離れて暮らす私達は安心できる。ありがとうございます。
「印刷工場を見学」
(信濃毎日新聞社提供)
配達は人助け
「出発前バイクの始業点検」
(産経新聞社提供)
「新聞配達は人助けなんだよ」
新聞配達を40年間続けている祖母は言います。最初、意味が分からなかった私が首をかしげていると、祖母はこんな話をしてくれました。
祖母がいつも通り新聞配達をしていると、人が倒れていて救急車を呼び助けたことがあるそうです。毎日届けている新聞がたまっていることに気づき管理人さんに確認してもらうと、家の中で人が亡くなっていたこともありました。祖母が見つけなかったら、その人はずっと誰にも気づかれなかったかもしれません。
私はやっと祖母の話の意味が分かりました。今の日本は超高齢社会で、お年寄りの方が独りで暮らしていたり、地域の人との関わりが少なくなってきていることが問題となっています。
そんな中、新聞を配達することだけではなく、お客様の安全を気にかけることも新聞配達の大切な仕事だと思いました。私は笑顔で話している祖母のことを心から誇らしく思いました。
「出発前バイクの始業点検」
(産経新聞社提供)
家族で離島へ新聞配達
「五島列島・久賀(ひさか)島での積み下ろし」
(長崎新聞社提供)
僕の祖父は石垣島の新聞販売店主、配達歴34年です。
僕の父が幼い頃、新聞の印刷所がない石垣島には、朝一番の飛行機で、インキの匂いがプンプンする新聞が届きました。父はその匂いが大好きだったそうです。
日曜になると、僕の祖母が作ったたくさんのおにぎりとジーマミー豆腐を車に積んで、家族6人で石垣島と離島の配達に出掛けます。まずは離島へ届けるため港へ行き、八重山諸島の島々に向かう船に新聞を載せます。その後は、石垣島をぐるっと回る「プチ旅」へ。途中の川や海では広大な自然を楽しみ、配達先では、サーターアンダギーをもらい、カーステレオなど無い時代、皆で「てぃんさぐぬ花」を大合唱。笑顔満開のひとときでした。
台風が来ると、家は新聞であふれてしまいます。しかし、どんな時も真面目に働く祖父の姿は、父が今、仕事で忙しい中、新聞配達を手伝っていることにつながっているでしょう。そんな祖父や父が本当にかっこいいと思いました。
「五島列島・久賀(ひさか)島での積み下ろし」
(長崎新聞社提供)
最優秀賞
広がるぼくの世界
「間違えの無いように順路帳で確認」
(山梨日日新聞社提供)
ぼくは時々、新聞の投稿欄に作文を送っています。ぼくの作文が新聞にのると、朝一番におばあちゃんが電話をくれます。親せきや近所の人に「新聞読んだよ」と言われることもあります。ぼくの作文を読んで、新聞社に手紙を送ってくれた人もいました。知らない人が作文を読んで、ぼくのことを考えてくれるなんて「新聞ってすごいな」と思います。
ぼくの住んでいる世界は小さいけど、ぼくの作文がのった新聞が届けられる所は、遠くの町も、全部ぼくの世界のような気がします。
たくさんの人が新聞を毎日読めるのは、配達してくれる人がいるからです。配達の人へのありがとうの気持ちをこめて、ぼくは家のポストの下に花を植えました。本当はぼくの世界を広げてくれる配達員さん一人一人に「ありがとうございます」と言いたいです。
4年生になって、ぼくは新聞係になりました。今、ぼくは、クラスのみんなに楽しい新聞を届けられるように、がんばっています。
「間違えの無いように順路帳で確認」
(山梨日日新聞社提供)
審査員特別賞
読んでくれる人がいるから
「素早く丁寧に。配達前の大事な作業」
(デーリー東北新聞社提供)
「大丈夫」
とつ然のできごとだった。新聞配達を長年続けていたおじいちゃんが、台風でバイクごとたおれてしまったと連絡がきた。お見まいに行ってみると、「うでとこしに、何本もボルトを入れた」とつらそうにしながら笑っていた。どうして笑っていられるのだろう。私はそう思った。
後日、おじいちゃんに「どうしてそんなに笑顔で新聞配達ができるの」と聞いてみた。すると、「新聞を読んでくれる人がいるから」と言っていた。
新聞をとどけていると笑顔でしゃべりかけてくれる人がたくさんいる。ありがとうと言ってくれる人がいる。そんなささいなことで新聞配達をつづけられるおじいちゃんを、本当にそんけいしている。
やっぱりこの話を聞いて、どんなに小さな事でもいいから気配りのできる、感謝できる人になっていきたいと思った。
「素早く丁寧に。配達前の大事な作業」
(デーリー東北新聞社提供)
優秀賞
プレゼント
「プライドを持ってやってます」(東京新聞提供)
ぼくの学校では、3年生になると新聞をつかったじゅぎょうをします。地いきの新聞記事を切りぬいて、考えて話し合うべん教です。
新聞を切りぬくとき、一人のはいたつのおばさんを思い出します。
なぜかと言うと、ぼくの記事が新聞にのったとき、切りとってラミネートか工して家までもってきてくださいました。
はいたついんさんは「すごくがんばったね。これからもおばさん楽しみにしているからね」と、言ってくださいました。
ぼくのことをおうえんしてくださっていると思うと、心が温かくなりました。そして、毎日を大切にがんばろうと思いました。
はいたついんさんは、新聞をくばるだけでなく、ぼくたちにえ顔とよろこびをとどけているのだと思います。
はいたついんさん、ありがとうございます。
「プライドを持ってやってます」(朝日新聞社提供)
入選(7編)
感謝の気持ちを伝えたい
「配達順路をしっかり確認」
(朝日新聞社提供)
僕は新聞がとても大好きで、毎日起きてすぐ読みます。毎日読んでいると自然と漢字を覚えたりしてとても役立ちます。
新聞は毎日普通に届いていると思っていたけど、母に話を聞いたら配達するのはとても大変なことだと分かりました。一軒一軒、家の場所を覚えないといけないこと、家の人が朝起きてすぐ読めるように暗いうちに配らないといけないことなどたくさんありました。新聞配達をするのはこんなに大変なんだと初めて知りました。
配達員の方に感謝の気持ちを伝えようと思い、妹と手紙を書いて郵便受けに入れました。手紙は無くなっていました。気付いてくれたのでうれしかったです。
今度は休日に早起きをして、配達員さんに「おはようございます。おつかれ様です」と声をかけて、感謝の気持ちを伝えられたらいいなあと思います。
「配達順路をしっかり確認」
(朝日新聞社提供)
おやすみにしていいよ
「雪なんかには負けません」
(福井新聞社提供)
わたしのすんでいるところは、ふゆになるとゆきがたくさんふります。
2月のある日、わたしはぜんぶで5じかんゆきかきをてつだいました。ゆきは、どかしてもどかしてもドカドカふってきて、すぐにどうろが見えなくなりました。さむくてさむくて、手や足やかおがいたかったです。
つぎのあさ、こんどはおなかがいたくて、なんかいもトイレにいきました。
コタツであたたまっていると、おにいちゃんがしんぶんをとってかえってきました。わたしは、いそいでそとに出ました。どうろはやっぱり、見えないくらいまっ白で、人があるいたあともありませんでした。どうやってとどけてくれたんだろう?
こんなにさむくて、ふかいゆきの日も、しんぶんやさんはおやすみしないのかな?
あのね、しんぶんやさん! もし、さむくておなかがいたくなったら、うちのしんぶんはおやすみにしていいよ。おとうさんも、おかあさんも、おこらないよ。
「雪なんかには負けません」
(福井新聞社提供)
雨の日も心は晴天
「ウミネコの繁殖地として有名な蕪嶋
(かぶしま)神社」
(デーリー東北新聞社提供)
「寒いなあ……」
雨の日。私は朝、新聞を家のポストに取りに、家のとびらをあけた。
「うわあ。すごい雨だ!」
そう言うと、私はハッとなった。
もしかしたらポストに雨が入って、新聞がぬれているかもしれない。ポストまでこけないように走った。
「読めないくらいぬれていたらどうしよう」
心配しながらポストをあけると、新聞はぬれていなかった。新聞はビニールぶくろに大事に入っていた。
「お母さん! 新聞が!」
私は家にかけこみ、お母さんにこのことを話した。お母さんが言った。
「こんなに小さな思いやりだけど、今ちさはすごくうれしいでしょ?」
今日は雨だが、私の心は晴天だ。
「ウミネコの繁殖地として有名な蕪嶋(かぶしま)神社」
(デーリー東北新聞社提供)
おじいちゃんは新聞配達のプロ
「九州北部豪雨のつめ跡残る中、夕刊配達」
(西日本新聞社提供)
私のおじいちゃんは新聞配達のプロ。もう20年近くやっているらしい。おじいちゃんいわく、朝早く起きて新聞配達をすると、気持ちが良く元気になるし、近所の人とのあいさつや町の様子の変化が面白いのだそうだ。でも、新聞配達歴20年のおじいちゃんでもまちがうことはよくあって、一軒とばして配ったり、ちがう種類の新聞をわたしてしまうみたい。おじいちゃんがドジなせいもあるかもしれないけど。そんなおじいちゃんは家でも新聞をいっぱい読んでいる。積み重なった新聞、たくさんの切り抜きノート。私が宿題をしていても、その横でよく新聞を読んでいる。「おじいちゃんの一番の友達は新聞だなあ」とつくづく私は思うんだ。でも、そんな中でもおじいちゃんは今年67歳だし、毎日の配達で無理はしてほしくないっていうのも私の正直な気持ち。いくら早起きは体にいいっていっても、体をこわしたら元も子もないからね。
最後に一つ。私は新聞配達しているおじいちゃんも、いつも熱心に新聞を読んでるおじいちゃんも大好きだよ。私も来年中学生になるし、「大好き」なんてはずかしくてなかなか言えなくなると思うけど、これからもずっと大好きだよ、おじいちゃん。
「九州北部豪雨のつめ跡残る中、夕刊配達」
(西日本新聞社提供)
まいにちのたのしみ
「丁寧に運こべよ」
(河北新報社提供)
しんぶんやさんはいつも日ようびいがい、まいにちきてくれる。あさは、ぼくがねているときだからあえないけど、ゆうがたは学校からかえってきてるから、あえる。
ゆうがたしんぶんやさんがくるときは、しんぶんやさんにあいたいので、しんぶんやさんのバイクの音がきこえてきたら、ぼくはしんぶんうけのところまで出ていく。
しんぶんやさんはぼくに、はなしかけてくれる。「もうしゅくだいしたん?」とか、ほかにもいろんなことをはなしかけてくれる。それがぼくはとってもうれしい。一日のなかのたのしみの一つだ。
しんぶんやさんがげんきにニコニコとはなしかけてくれるからぼくもうれしいし、げんきになれる。しんぶんやさんはまだ、あとのはいたつがあるので、いつもゆっくりおはなしできないのがざんねんだけど、ニコニコと手をふっていく。
しんぶんやさん、これからもからだに気をつけてがんばってね。そしていつもありがとう。
「丁寧に運こべよ」
(河北新報社提供)
10枚の記念写真
「五島列島・堂崎教会」
(長崎新聞社提供)
ぼくの家には、徳島新聞販売店の人が、2009年から18年にかけて写してくれた10枚の記念写真があります。
毎年、加茂谷コイ祭りで、新聞屋さんが写してくれる思い出の写真です。
その写真はぼくの赤ちゃんの頃からの成長がわかる、とても大切なモノになっています。
新聞屋さんは毎年、同じ時期に出来上がると、お金もとらないで山奥のぼくの家まで届けてくれるし、ぼくの顔を見ると、「大ちゃん、大きくなったね」と声をかけてくれます。そんななにげない優しい新聞屋さんに接して、ぼくの心は、なにかあたたかいものにつつまれた、幸せな気持ちになります。
これからも、加茂谷コイ祭りに行って、新聞屋さんに家族の思い出の写真を写して もらい、わが家の一生の宝物として一枚ずつふやしていきたいです。
「五島列島・堂崎教会」
(長崎新聞社提供)
新聞配達を続ける理由
「配達の前の準備はしっかりやろう」
(産経新聞社提供)
私の祖母は約30年間新聞配達をしています。祖母がなぜ長く続けられるのか気になったので、話を聞いてみました。
まず、続けていて楽しいことは、山の自然の美しさや変化を見られることだそうです。反対に、悲しいことは、新聞を届けていた老人が亡くなって、その家に新聞を配達できなくなることだと言っていました。今、老人が多くなっている地域がふえているので、とても悲しいそうです。最後に、やりがいは何かを聞くと、地域の人に感謝されることと、健康でいられることだそうです。
私はこれを聞いて、新聞配達を続けていると、楽しいことや悲しいことがあるけれど、人に感謝されたり、健康でいられるすばらしい仕事だと思いました。
毎日決まった時間に新聞が届くことは、自分にとっては当たり前のことだと思っていたけど、祖母の話を聞いて、新聞配達をしてくれる人にもっと感謝したいなと思いました。
今朝も私の家のポストには、新聞が入っていました。心をこめて「ありがとう」。
「配達の前の準備はしっかりやろう」
(産経新聞社提供)
(敬称略)