最優秀賞
祖父の手帳
「気持ちのよい青空の下」
(熊本日日新聞社提供)
祖父は配達屋さんだった。山の中の集落では、毎日険しい坂を上り下りするのは大変だったろう。遊びに行くと、よく私に肩たたきをせがんできたものだ。そんな祖父からは、しわくちゃの千円札が入ったお年玉袋をもらった。いつも「少なくてすまん」と言われながら。ありがとうと返しながらも、私は子供心に、少ないなあなんて思っていた。
大学生のとき、祖父は亡くなった。かけつけると、冷たくなった祖父の枕元には、一冊の手帳があった。手帳には、配達先のお客さんのことがたくさん書いてあった。通院予定や畑の農作物の種類まで、鉛筆で殴り書きされていた。
私はこの瞬間、祖父が地域の人たちをどれだけ愛していたのか、初めて知ったのだった。そして、毎年くれた、しわくちゃの千円札は、祖父が必死に働いた証しだった。そう気付いたときには、もう祖父はこの世にはいなかった。私は大声で、何時間も泣き続けた。
祖父の手帳は、私の宝物だ。毎朝新聞を読むとき、祖父の優しい笑顔を、ふと思い出す。
「気持ちのよい青空の下」
(熊本日日新聞社提供)
審査員特別賞
封筒のお礼
「ポストへ投函」
(河北新報社提供)
朝刊に、1枚の付箋が貼ってあることに気付いた。そこには「室内灯がついています」のメッセージと車番の記載。慌てて外へ飛び出すと、玄関前に駐車してあるわが家の車が、
真冬のいてつく朝、わざわざペンを執って知らせてくれた新聞配達の方がいる。驚きと感謝。「うれしいね、お礼の気持ちを伝えたいね」と、家族で1枚の封筒を用意した。中には、お礼の手紙と使い捨てカイロ、のどあめ、クッキーを少し。「新聞配達の方へ」と表に書いて、その夜、ドアポストに貼って寝た。家族であたたかい気持ちを共有した一日。
次の朝、新聞と交換に封筒はなくなっていた。まだ会ったことのない配達員さんとのやり取り成功! ほんわか豊かな気持ちになる。
そして後日、今度はその配達員さんが「封筒のお礼を言いたくて」と家を訪れてくれた。それこそ付箋1枚で済むことを⋯⋯。春の日のように、柔らかな笑顔の好青年だった。
「ポストへ投函」
(河北新報社提供)
優秀賞
家族からもらう喜び
「ご購読ありがとうございます」
(北國新聞社提供)
除雪車が通った後のピカピカの路面の上で、おそるおそるバイクを押しながら新聞を配る。冬の配達は命がけだ。年月を重ねるごとに体もきつくなり、やめたいなあと思うとき、うれしかった出来事が思い起こされる。
娘が結婚式の席で「昔から新聞配達をしている母は大雪の日も休むことなく『滑って転んだアッハハ』と笑い飛ばす。母が居るだけで家の中が明るくなる」と感謝の気持ちを伝えてくれた。温かい言葉が心に染み入り、頑張ってきて良かったと涙があふれた。
唯一身内だった母と18で死別し、孤独になった私。ただ毎日をがむしゃらに生きて、気付けば家族が一人また一人と増えた。孫たちに「ババ」と呼ばれる瞬間がたまらなくいとおしい。
家族が居る幸せをかみしめながら、生きる喜びをもらっていることを実感する。自然と活力が湧いてきて、元気な声も届けたくなる。
これだから新聞配達は、やめられない。
「ご購読ありがとうございます」
(北國新聞社提供)
入選(7編)
休刊日に思うこと
「準備が大事」
(東京新聞提供)
家内が娘を出産した平成17年の春、週末は息子たちの育児に励んだ。近所の公園に付き合うのは決して嫌ではなかったが、仕事と新しい住まいや家族環境の変化に疲弊していた。
そんな折に二人の息子を連れて新聞販売店に出向くことがあった。用件を済ませた後に販売店の奥様から子育て中の苦労話を聞かせていただいた。「新聞配達がある以上、仕事は休めない。夫婦で子供たちと過ごせるのは月に1度の休刊日しかなかったの。だから旅行に出掛けるのもその日1泊だけ。学校を休ませてでも家族で過ごしたものよ」と。その言葉に自分を振り返り、家族で一緒に過ごせる休日のありがたみをかみしめて帰宅した。
私は月に1度の休刊日がくると、販売店の奥様の柔らかな笑顔と、休日を心待ちにしていた子供たちのはしゃぎ声を勝手に想像してしまう。有意義な時間は誰しも明日のエネルギーになる。私にとっての休刊日は、手持ち無沙汰と同時に新聞配達員の皆さまには特別な一日。
「準備が大事」
(東京新聞提供)
楽しみながら⋯⋯
「今日も無事配達完了」
(中日新聞社提供)
66歳で始めた新聞配達がもうすぐ7年目に入る。2時30分から5時までオートバイでの配達である。ウサギやキツネに出会うことはあっても人と出会うことはほとんどない。
この冬は、路面が凍ることもあまりなく、例年だと滑って転ぶことが何度もあるが、一度もない配達しやすい冬だった。
ある日、90歳のおばあさんが一人で住んでいる家の郵便受けに前日の新聞がそのままあった。心配になって日中に訪ねたら元気にしており安心した。皆に見守られながら生きているんですネ、ごめんなさいネと言われ、かえって恐縮してしまった。
実は、過去に孤独死されていた家に数日配達し続けていたことがあり、気付いてあげられずにショックを受けたことがあった。
今、つつじが満開で、4時ごろには明るくなり、花々が迎えてくれる。ささやかな使命感を抱き、花々や夜明けの景色を楽しみながら毎日元気に配達していきたい。
「今日も無事配達完了」
(中日新聞社提供)
心のふるさと
「さあ、出発。読者のもとへ」
(中国新聞社提供)
「配達スタッフ募集中」
偶然通りかかった新聞販売所の店先の文字が目に飛び込んできた。私は思わず自転車を止めて、息子のことを思った。
不登校から高校をリタイアして自信をなくしていた。新聞配達を頑張ることで次へのステップになるかもしれない。帰宅し提案すると、緊張した顔が返ってきた。それでも翌日、自分から販売所へ出掛けていき、決めてきた。一歩を踏み出した。
それから2年と数か月。進学のため上京するまで配達は続いた。ミスして迷惑を掛けたことは一度や二度ではなかっただろう。販売所のご主人に支えていただきながら、失敗は反省し、続けたその経験は少しずつ新生活への自信となっていた。
社会人となった今でも、帰省すると土産を持って販売所を訪れる。近況報告してまた東京へと戻っていく。見守ってくださったご主人と奥さんの存在が、息子の大切な心のふるさとになっている。
「さあ、出発。読者のもとへ」
(中国新聞社提供) )
母の言葉
「コロナ対策での作業」
(日本経済新聞社提供)
私の母は、新聞代金を集金に来た人に必ず缶コーヒーを2本渡しています。「新聞が読めるのは当たり前と思ってはいけない、配達してくれる人がいるからこそ成立する“日常”なんだよ」といつも言います。私は未熟にも「あっそう」くらいにしか思っていませんでした。
ところがコロナ騒ぎが始まり、緊急事態宣言が出てから一変、当たり前に思っていた“日常”がガラっと変わってしまいました。コロナにかかってしまうのでないかという不安に駆られながら、社会の変遷に必死で対応していく毎日を過ごしています。
今となって母の言葉を深く思い起こします。コロナとの葛藤の中で、リスクを背負いながら最新の情報を家庭に伝える新聞配達はなんてかっこいいのでしょうか。この当たり前の“日常”は人々に情報を伝えるだけでなく、心の支えにもなっているのだと実感しています。
次の集金日、私は母にならって冷えた缶コーヒーを2本渡そうと思います。
「コロナ対策での作業」
(日本経済新聞社提供)
貴重な時間
「橋をバックに風を切る」
(産経新聞社提供)
3年ほど前から、日曜日の朝だけの1時間ほど、新聞を配達しています。最近、次男が初めて配達についてきました。誰もいない町の中、私は自転車をゆっくりとこぎ、その横を次男が走ってついてきます。私がポストに新聞を入れる様子を、次男は珍しそうに見つめています。
朝早くまだ暗いので、「まだ寝ている人も多いから、もっと小さな声で話そう」と注意しても、「お母さん。お母さん」とうれしそうにあれこれと話しかけてきます。次男は6年生で、まだ反抗期前です。高校生の長男は反抗期真っ最中なので、次男の様子がとても貴重に思えます。
夜明けの時、次男が「空が赤いね」と言いました。赤い空を眺めている次男を見ていたら、6年生の頃の細くて小さな長男を思い出しました。するとなぜか、長男に対して、もっと大きな心で接したいと思えました。
自転車に積んだ新聞もだいぶ減り、私は「さあ、行こうか。あと少しで配り終わるよ」と言い、ペダルに片足を乗せました。
「橋をバックに風を切る」
(産経新聞社提供)
新聞とのつながり
「順路を確認」
(朝日新聞社提供)
静かな山で2度目の冬を迎える私は「雪の日は大変ですから、春まで新聞を止めてください」と、一方的に新聞販売店に電話を入れた。「最後は自然の中で過ごしたい」と抗ガン剤治療を終えた夫のひと言で私は、思い出の多いスキー場近くに終えんの場を探し、古い空き別荘をみつけて移り住んだ。
自然から頂く力強い生命力によって医師から告げられた余命も1年近く延びたが、雪に閉ざされた生活は夫をうつ病にしてしまった。夫が唯一、社会とのつながりを持っていた新聞を止めてしまったことを私は後悔した。私たちは新聞から得た情報で生活の質を高め、明日を生きようとする力を養っていたことに気付かされた。
訳を話し、再配達をお願いした翌朝、凍りついた二重戸のすき間からビニール袋に入った新聞がみえた。私は命綱をつかんだようでホッとし、うれしかった。次の日、配達をねぎらうメモとくつ下2足を新聞受けに下げて、いつまでも新聞とのつながりを持ちたいと願った。
「順路を確認」
(朝日新聞社提供)
手に取る幸せ
「感染症対策は万全」
(信濃毎日新聞社提供)
毎朝の新聞は3時台に届く。あの日もきっとそうだった。
豪雨の末、山が溶けるように崩れ落ち、あちこちの道路や家、車や人や生き物をのみ込んでいったのは新聞配達のバイクが通り過ぎた頃。もしかしたら、すぐ後だったかもしれない。
2018年7月7日付の朝刊は、山からの土砂にねじ倒され泥に埋もれたポストの中から、何日もあとに取り出されることになる。
土砂やガレキが家を囲み、山からの水が勢いよくわが家へ流れ込む日々が続く。私は生気を失った。土砂をひとすくいするたびに、涙と汗がドクドクと流れ出る。崩れた山が私を笑う。この現実から逃げ出したい。なかったことにしたい。空っぽで真っ暗な心のまま土砂をすくい続ける毎日。笑うことも、交わす言葉も忘れていった。
それでも毎朝、新聞が届いた。晴れた朝でもビニール袋で大切にくるまれ、昨日はここ、今日はここ⋯⋯と、安全で目に付くところに置かれていた。ポストのない、土砂とガレキに囲まれたわが家のどこかに、贈り物のように置かれていた。土砂で何か所も寸断された道を通って、毎朝届けられた。
空っぽだった私の心が、動いた。
毎日朝刊をポストに取りにいく。それは、幸せを手に取ることだと、今、思う。
「感染症対策は万全」
(信濃毎日新聞社提供)
最優秀賞
新聞と一緒に届いた心遣い
「街灯と暁光の間で」
(京都新聞社提供)
今年もわが家の玄関にツバメがやって来た。
キィー、カタン。毎朝、自転車に乗ったおばさんがわが家に新聞を届けてくれる。雨の日には濡れないようにビニールでパックされた新聞が届く。だが、田植えの季節になると雨も降っていないのに、ビニールでパックされた新聞が毎日届くようになった。最初は配達の人が代わったと思っていたが理由は違っていた。ある日、新聞の入ったビニールにツバメの
ブルルル、ガタン。今日はビニールに入った新聞をバイクに乗ったおじさんが届けてくれた。配達の人が代わっても心遣いは受け継がれている。間もなく成長したヒナが巣立っていく。僕も来年の春には高校を卒業して新たな世界へ旅立つが、新聞配達のおばさんのような心遣いができる大人になりたいと思う。
「街灯と暁光の間で」
(京都新聞社提供)
審査員特別賞
祖母との思い出
「コロナ渦の配達」
(毎日新聞社提供)
私には亡くなった祖母との思い出がたくさんある。その中でも、新聞配達の思い出が一番印象に残っている。
私の祖母は昔から新聞配達をしていて、近所の人達からも慕われていて、多くの人は私の祖母が新聞配達をしていることを知っていた。大みそかの夜は、配達する新聞の量が多くなるので、毎年私たち家族も手伝っていた。私は小さかったので母と祖母と一緒にいて、兄たちと二組に分かれて配っていた。多くの人は寝ていたが、祖母と話をするために起きて待っている人もいた。しかし、祖母が体調を崩して配達を他の人に代わってもらうことがあった。その翌日、たくさんの人が祖母のことを心配して家を訪ねてきた。
そのとき、母が私に「たくさんの人が困っているときに助けるから、みんなからも優しくしてもらえるんだよ」と言った。そのときに、私は優しくして、みんなから頼られ親しまれている祖母のようになりたいと思った。
「コロナ渦の配達」
(毎日新聞社提供)
優秀賞
小さな心配り
「正確かつ迅速に」
(秋田魁新報社提供)
「自転車のお尻が通路にはみ出してるよ。配達員さんがつまずいたらどうするの?」と母が玄関先から僕を呼んだ。
母は中学から高校の6年間、朝刊配達をしていた。山間地で、学生のアルバイトといえば新聞配達くらいしかなかったという。街灯が無い暗い道を自転車の明かりだけを頼りに配っていく。自転車や農機具が通り道にはみ出していて、それにぶつかって乗り上げ、自転車ごとひっくり返ったことが何度もあった。かごいっぱいに積んだ新聞が辺りに散らばって、暗闇の中、手探りでかき集めたそうだ。そのときの虚しさや切なさは忘れられないという。
わが家の玄関先の外灯はいつもつけたまま。真っ暗になる庭は、人感センサーで通路を照らす。配達員の経験から、母は「小さな思いやり」を忘れていないんだなと気付いた。「今日も配達ありがとうございます」。母がポストに貼っているメッセージを見るたびに、心が一瞬キュッと鳴る。
「正確かつ迅速に」
(秋田魁新報社提供)
入選(7編)
心の懸け橋
「県産材・おび杉の新聞専用ポストへ」
(宮崎日日新聞社提供)
「おはよう」その一言で私はとてもうれしくなり笑顔で挨拶を返した。
新聞配達を始めて1年。私は毎朝、新聞を待ってくれている人や道ですれ違う人全員に挨拶をしている。私は「おはよう」の言葉を毎日もらう。そんな中、一人だけ挨拶を返してくれないおばさんがいた。私はおばさんへの挨拶はもうやめようかなと思ったりもした。しかし、挨拶を返してもらいたいと思う自分がいて私は挨拶を続けた。
ある朝、いつも通り挨拶をするとおばさんがぺこりとお辞儀をしてくれた。そして数日後には「おはよう」と言ってくれたのだ。それからは、毎日挨拶を返してくれる。私は11か月をかけておばさんの心を開くことができたのは挨拶の力だと思う。
前に「挨拶は心と心の懸け橋だ」と聞いた事がある。このとき私は本当にそうだなと実感することができた。これからも新聞配達をしながら挨拶の輪を広げていきたいと思った。また、もらった挨拶を糧に新聞配達を頑張りたい。
「県産材・おび杉の新聞専用ポストへ」
(宮崎日日新聞社提供)
新聞のおばちゃん
「配達員が結ぶ読者との縁」
(山陰中央新報社提供)
毎年、冬の終わりに届く封筒。僕の誕生日を祝うカードと千円札。差出人は「新聞のおばちゃん」。年の離れた大切な友達。
彼女は、僕が小学生の頃住んでいた町で新聞配達と集金をしている。当時、集金日におばちゃんが来ると僕は風呂やトイレ、宿題やおやつの途中、時々は母に叱られている最中でも、母から新聞代を預かり玄関に走った。「髪切ったね! カッコイイ!」「日焼けしたね! サッカー頑張ってるんやね!」「おばちゃんはファン第1号やよ!」。別れ際にはハイタッチ。お互い集金日を楽しみに過ごし、それは僕が今の町に引っ越すまで続いた。
僕らは住所交換し、以来、年賀状や短い手紙のやりとりを続けている。「ゆうちゃんガンバ! サッカーも勉強もファイト!」。おばちゃんからの手紙には、色とりどりのサインペンで描かれたカラフルな星やハートと応援の言葉が散りばめられている。それを広げると、小学生の頃の気持ちに戻ったような感覚がする。悩みや疲れが和らぎ、自信と元気が湧く。僕のために精一杯カラフルに可愛らしくカードを描く彼女の姿が頭に浮かび、最近は少しホロリとする。
おばちゃん、ありがとう。今日も新聞と一緒に笑顔と元気をあの町のみんなに届けているんやね。身体を大切にね。近いうちに日焼けした顔を見せに会いに行くよ。
「配達員が結ぶ読者との縁」
(山陰中央新報社提供)
“当たり前”にありがとう
「準備は丁寧に、確実に』
(岐阜新聞社提供)
自粛生活のおかげで私は、早起きして部屋の窓から朝日を拝むようになりました。街明かりが消えて、鳥のさえずりが少しずつにぎやかになって。その日一日の期待が詰まったようなこの時間が大好きになりました。そのほんの少し前。まだしんとしている時間に、決まって1台のバイクの音がするのです。ブゥンといって止まり、また少し行って止まる。路地を横切るバイクを一目見て、それが新聞配達だと分かりました。「そうか、これも人の手によって運ばれているのか。こんなところにも人とのつながりがあるのか」と思いました。
親が読んでそのまま放置されていた新聞を、少しだけ開くようになりました。当たり前のように今日も新聞が届きました。毎朝欠かすことなく、ブゥンという音と共に。“ありがとう”の反対は “当たり前”という言葉を思い出しました。
今度玄関に立って直接新聞を受け取ってみようかな。そして直接ありがとうを伝えてみようかな。こんな早朝に立っていたら驚かれるかもな。
「準備は丁寧に、確実に」
(岐阜新聞社提供)
教えてくれた
「店内は配達準備で大忙し」
(下野新聞社提供)
真夜中に揺れが北海道に起こった。揺れで目が覚め、何が起こったのかがまったくわからなかった。テレビを見ようとしたら、北海道は全域で停電していた。
家ではガスや水が出るので、そこまでの被害が出ていなかったのが幸いだった。停電でテレビが見られず、ラジオがない。他の地域にどんな被害があるのかの情報がなかった。
朝、母がポストを見ると新聞が入っていた。僕も母も驚いた。このおかげで他の地域の被害やいつ停電が直るのかなどの情報を得られ、新聞の重要性に気付くきっかけになりました。
テレビという物ができ、ニュース番組があって、出来事などがわかりやすく、とても早く出ます。新聞よりはテレビの方が主流です。新聞を読んだことがありませんでした。今回の胆振東部地震が起き、全域で停電。このことがきっかけで僕は新聞を読むようになりましたし、新聞ならではの良さ、面白さに気付き読み続けています。地震の際に新聞が被害を教えてくれました。
「店内は配達準備で大忙し」
(下野新聞社提供)
すてきな仕事
「積み込みも丁寧に」
(読売新聞社提供)
私の祖母は数年前まで新聞配達をしていた。夜明け前に家を出て配達をする。それは、雨でも雪でもあの歴史的大震災の後も続いた。
「ここは震災のとき被害は少なかったけど、『大丈夫でしたか?』と、一軒一軒を気遣い笑顔で声を掛けながら新聞を配ったんだよ」と、祖母は言った。あの日はまだ雪の残る3月。辺りは暗く余震も続き、恐怖も感じていたはずなのに、笑顔で配達を続けたという祖母を私は誇りに感じた。「新聞を待っている人がいる限りどんなときも配達しなきゃいけない」と、勇気付ける使命の表情が印象的だった。
新聞配達は、人を幸せにし笑顔を広げる。役立つ情報を届けながら道しるべを伝えることができる。人と人を結ぶ交流があり、私はすてきな仕事だと思う。
祖母は「お疲れさま」の一言がうれしいと言う。祖母の信念を知り、明日は早く起き、新聞配達さんに感謝を伝えたい。いや、むしろ伝えなくてはいけないと心から強く思う私がいた。
「積み込みも丁寧に」
(読売新聞社提供)
優しさや気遣いとともに
「折り込み作業は素早く」
(朝日新聞社提供)
私は今、新聞配達の人にもっと感謝をすべきだったなと思った。私はつい1年程前まで新聞配達の人について特に何も思いを抱いてはなかった。気が付けば朝晩と新聞がポストに規則正しく配達されている⋯⋯ぐらいだった。
しかし、北海道胆振東部地震のときにその印象が変わった。近所の新聞販売店の人から麦茶を一杯頂き、新聞がとても身近に思えるようになった。あのとき、私は飲み物を探しに行ったが、自動販売機まですべて完売。探し回り喉が渇いているときに「良かったら麦茶をどうぞ、こんなときだからこそできることをしています」と声を掛けられ、私は驚いた。顔すら知らない相手に扉を開けてくれたことにだ。朝晩ただポストに入りニュースを読むためだけの物が、背後に人の存在を意識させる物へと変わった瞬間だ。
毎日届く新聞には、情報だけではなく販売店や配達員の優しさや気遣いが入っていると実感した。いつも陰ながら地域を見守ってくれて感謝の気持ちでいっぱいだ。
「折り込み作業は素早く」
(朝日新聞社提供)
忘れられない思い出
「夕刊配達開始」
(毎日新聞社提供)
私は小学1年生のときから、中学3年生の今まで、毎朝新聞を読んでいる。そんな中で忘れられない思い出がある。
いつものように新聞を読んでいると、当時の私には難しい単語がのっており、意味が理解できなかった。次の日の朝早く、私はポストの前で配達員さんを待っていた。昨日の新聞で分からなかった単語の意味を配達員さんなら知っているだろうと思ったからだ。今思えばとても迷惑なことだったのだが、その配達員さんは「その単語、難しいよね」と笑顔で言ってくださり、詳しく意味を教えてくれたのだ。次の日、お礼がしたくて配達員さんに折り紙で作ったお花を渡すと、満面の笑みで受けとってくださった。その日から私は、新聞を読むだけでなく、内容をしっかりと理解し、自分の考えももてるようになった。
この出来事はとてもうれしく4年たった今でも心に残っている。これからも新聞を読み、理解を深め、自分の考えをもつようにしたい。
「夕刊配達開始」
(毎日新聞社提供)
最優秀賞
え顔のプレゼント
「慎重にチラシをセット」
(山陰中央新報社提供)
「時間だよ。早くおきて」
時計を見るとまだ3時で、ねむくてねむくて目がくっつきそうだった。空手の東北大会へ出場するために、秋田けんへ行くのだ。
4時。出発の時間だ。
道着を着てげんかんを出ると新聞はいたつのおじさんがいて、「早おきだね。空手の大会かな? がんばってきてね」と声をかけてくれた。ぼくはなんだかうれしくなって、「オス! メダルをとってきます!」と言って車に乗りこんだ。
でも、けっかは8位でメダルをとることはできなくて、帰りは車の中でずっと泣いていた。泣けば泣くほど「がんばってね」とえ顔で見送ってくれたおじさんを思い出して、くやしかった。
その日の夜、ぼくは「メダルをとれなくてごめんなさい」と書いた紙をポストにはってねた。すると、次の日の新聞には、「がんばったね。その気もちがあれば、次はきっとかてるよ」と書かれた紙がはってあった。
それから半年。
ぼくはむらさきおびから茶おびにしょう級して、練しゅうをがんばっている。おじさん、来年はぜったいにメダルをとって、え顔のおかえしをするからね。
「慎重にチラシをセット」
(山陰中央新報社提供)
審査員特別賞
はいたついんさん、ありがとう
「配達区域ごとに」
(岐阜新聞社提供)
わたしは、朝、いつもおじいちゃんに、新ぶんをわたしています。おじいちゃんは、いつも、ありがとうと言ってくれます。わたしは、ありがとうと言われると、とてもうれしくなります。
おねえちゃんに、その話をしたら、新ぶんは、みんながねているときに、とどけてくれる人がいるんだよと教えてくれました。
わたしが、ねているときに、新ぶんをとどけてくれる人がいることを、はじめて知りました。
はいたついんさんは、だれに、ありがとうって言われるの? と、おねえちゃんにきいてみたら「みんなねているから、ありがとうって言われないよ」と教えてくれました。
はいたついんさんは、ちょっとかわいそうと思います。だから、わたしがかわりに、ありがとうって言いたいです。
はいたついんさん、ありがとう
「配達区域ごとに」
(岐阜新聞社提供)
優秀賞
一日のスタート
「愛用のバイクがスタンバイ」
(下野新聞社提供)
ぼくは学校が遠いので、早く起き学校へ行く準備をします。トイレに行くときに玄関のポストから新聞が見えます。ポストからいつもはみ出てるのを見て、新聞がいつも僕にニコッとあいさつしているように見えます。それを見ると今日もがんばろうとおもいます。でも月に1度あいさつがないのがショックです。でも次の日はいつもより多くあいさつしてくれているように見えます。いつも朝早く配達してくれる人がいることに感謝します。
まだ新聞を読むのは難しいけど、テレビ欄、そして写真記事を見たり、少しずつだけど新聞を読むようにしています。パパはネットで情報をもらうのと新聞を読むのは違うってよく言います。僕はまだその意味が分かりません。これからがくねんが上がるごとにパパが言っていることが分かるといいなとおもいます。
今日も新聞の日付をチェックして一日のスタートだ!
「愛用のバイクがスタンバイ」
(下野新聞社提供)
入選(7編)
あたたかい思いやり
「読者のもとへ」
(秋田魁新報社提供)
私は2年生の夏休み、近所の新聞販売所の見学に行きました。当たり前に毎朝読んでいる新聞は、どのように家まで届いているか気になったからです。一番驚いたことは、毎朝2時15分ごろから新聞を配り始めていることです。新聞配達が朝一番とは知っていましたが、真夜中の時間で驚きました。
新聞配達は天気の影響を受けるから大変だ、とうかがっていると、とつぜんのゲリラごう雨になりました。すると所員のみなさんが用意していた夕刊の一部一部に大急ぎで雨よけのビニールをかけ始めたのです。私も手伝ってみましたが、全て手作業でとにかく手間がかかります。でも紙でできている新聞をお客様にぬらさずお届けしようという気配りを感じて、あたたかい思いやりに、「ありがとう」と思いました。
今、家のポストを開けると、小雨の日も、ビニールに入った新聞が届いています。新聞をそうっと取り出して、その日の記事を読めるしゅん間が大好きです。
「読者のもとへ」
(秋田魁新報社提供)
しんぶんやさん、いつもありがとう!
「雨の日の配達準備」
(熊本日日新聞社提供)
「あしたは、しんぶんがおやすみなんだって」と、おとうさんがさみしそうにいいました。「しんぶんも、おやすみってあるんだね」と、いうと、「しんぶんは、しんぶんやさんがまいにちつくって、はいたつさんがいえにとどけてくれるんだけど、ときどきおやすみの日があるんだよ」と、いっていました。
しんぶんは、まいあさわたしのいえのポストにもとどいています。しんぶんが、あさポストにはいってなかったら、わたしもさみしいな、とおもいます。
でも、しんぶんがおやすみの日は、しんぶんやさんも、はいたつさんも、おやすみです。とくに、しんぶんはいたつさんは、あついときも、さむいときも、あめの日や、たいふうの日、ゆきの日も、まいあさはやくおきて、たくさんのいえにしんぶんをとどけるので、ほんとうにすごいな、とおもいます。
わたしは、いましょうがっこう1年生です。しんぶんは、しゃしんや、えのところと、じはすこししかよめません。でも、これからがっこうでたくさんべんきょうして、しんぶんをよめるようになりたいです。
しんぶんがおやすみの日は、しんぶんのおしごとをしているみなさん、ゆっくりやすんでください。つぎの日、しんぶんがポストにはいっているのを、たのしみにまっています。
しんぶんやさん、しんぶんはいたつさん、いつもありがとう!
「雨の日の配達準備」
(熊本日日新聞社提供)
みんなの幸せを守る配達員さん
「朝もやの中の配達」
(河北新報社提供)
ポストを開けると新聞がある。それがどんなに幸せなことか。今まであたり前だと思っていた日常が変わってしまった今、僕は初めて気がついた。
昨年大型台風が近づいた前日、新聞に明日の朝刊は配達が遅れることがありますと書かれていた。うちのポストはポンっと置いてあるだけで、飛んでいく恐れがあるため、家の中に片付けられた。配達員さんが困るかも? と思った僕は、庭から大きい石を押さえ用に取ってきて置いておいた。次の朝、ビニールをかけた新聞は、僕の石でしっかり押さえられいつも通り届いた。配達員さんが「私は大丈夫だよ」と言ってくれた気がした。新聞は配達員さんからのメッセージだ。
今はコロナが流行し台風よりもっと危険な中、毎日配達して「私は頑張ってるよ。みんなも頑張って」と僕らの変わらない日常を守って応援してくれる。朝がくる。新聞がある。この幸せな優しい時間をかみしめ、「今日もありがとう。僕もがんばります」と感謝して新聞を広げる。
「朝もやの中の配達」
(河北新報社提供)
感謝の箱
「出発!」
(信濃毎日新聞社提供)
私のおばあちゃんは、となり町に住んでいます。家の新聞入れの箱には、“いつもありがとうございます”と書いてあります。
私は、新聞屋さんがこの言葉で「よし、次も頑張ろう」という気持ちになるかもしれないと思いました。おばあちゃんは、「直接は時間が早すぎて言えないけれど、感謝の気持ちを伝えたいから」と言っていました。
ところが、新聞入れの箱がある日突然なくなっていました。おばあちゃんにその理由を聞いてみたら「ダンボール箱だったから台風で飛んで行ってしまった」ということでした。
だから私は、台風にも飛ばされない、がんじょうな新聞入れを作っておばあちゃんにプレゼントしようと思います。そして、私の家も、新聞屋さんが喜ぶような新聞入れにしたいです。
「出発!」
(信濃毎日新聞社提供)
配達員さんってすごい
「ビニールカバーで風雨を防ぐ」
(東京新聞提供)
昨年の7月21日、わたしの住むくるめ市に大雨がふりました。
この大雨のひがいは、床上しん水が238件、床下しん水が408件でその中に、わたしの家も入っています。けが人も1人出ました。
21日の早朝、家の前の道路が雨水でいっぱいになっていました。かべの半分以上の高さまで雨水があり、げんかんまで入ってきていました。2階のまどから外を見ると、車の高さの半分以上が雨水につかっている車が何台も見えました。はじめて見るおそろしい光景でした。
こんな大変な状況なのに、新聞がとどいていました。
わたしは、とてもびっくりしたのと、配達員さんってすごいと思いました。新聞配達の仕事の大変さと配達員さんの責任感の強さを学ばせていただきました。
ひがいが出るほどの大雨の中でも、配達員さんたちはいつも通りたくさんの家に行き、みんなに新しい情報をとどけてくれていることに、ありがとうの気持ちでいっぱいです。
今まで以上に、新聞にきょうみをもって読むようになりました。
「ビニールカバーで風雨を防ぐ」
(東京新聞提供)
はじからはじまで
「マスクをつけて集金へ」
(産経新聞社提供)
台風19号が仙台に近づいてきた夜のことでした。早くねなさいと言われて部屋に行ったけど、ガラスをたたく強い雨と風の音でなかなか眠ることができませんでした。やっと眠りについたころ、父の車の音で目が覚めてしまいました。父は新聞販売店につとめているので、だれかの代わりに出きんしなければならなくなったのです。どんどん強くなる外の音が、その後もっとひどくなり、とても心配でした。
朝ねぼうしてリビングにおりると、父がコーヒーを飲みながらいつものように新聞をはじからはじまでじっくり読んでいました。いつもの朝の光景を見て私はほっとしました。きっとたくさんの配達員さんの家族もわたしたちと同じで眠れない夜を過ごしたんだと思います。父がじっくり新聞を読む理由が分かった気がしました。なので私も牛にゅうを飲みながら小学生新聞を父のように、はじからはじまでじっくり読むことにしました。
「マスクをつけて集金へ」
(産経新聞社提供)
お父さんの誇り
「蜜を避けての作業」
(日本経済新聞社提供)
「ドンドンドン」
1階にある事務所から、少しうるさい音が聞こえてくる。たまに目が覚めて、時計を見ると夜中の2時。そう、私の家は新聞販売店なのだ。
豪雨災害のとき、朝早くから仕事をするお父さんに、「危ないときは休んだらいいやん」と言った。お父さんは、「お前くらいのときに新聞の手伝いをするのが嫌でたまらなかった。けど今は違う」とだけ言った。
ある日、仕事場から声が聞こえてきた。「いつもご苦労さん。毎日、新聞を届けてくれるから私たちの一日が始まるの。私たちは若い人たちみたいに機械に強くないから新聞がありがたい」。私は、そのお婆さんの言葉にハッとした。私たちが当たり前に使っているネットニュースは、お年寄りからすると、使いづらいのだ。昔お父さんが嫌でたまらなかった新聞の仕事を、今では誇りに思っている理由が少し分かった気がした。
その日から、うるさかったはずの音は、新聞を待ってくれている人たちの話し声や、笑い声のようにも聞こえるようになった。
「蜜を避けての作業」
(日本経済新聞社提供)
(敬称略)