私と新聞 2013年4月
ドナルド・キーン
ニューヨークのコロンビア大学に入学直後だった。将来について悩んだことがある。同級生たちは、何らかの職に就くという目的があって、授業を選んでいた。だが、全ての職が嫌いだった私には、授業の選択基準がなかったのだ。
周りからは「職がないと食えなくなるぞ」と脅かされた。仕方なく、適職を調べる試験を受けた。結果は「建築かジャーナリズム」。だが、図画は苦手で建築には無理がある。もう一方に望みを託し、大学のジャーナリズム・スクールの学長に相談した。
当時、私は短編小説を書いていた。学長はそれを2、3枚読んでから「ジャーナリズム以外の職を十分に考えてきたか」。解釈に困ったが、適性はなさそうな反応だった。
それでも、一時的に記者になった。1956年、米誌ニューズウィークの依頼で東京に出張。日本の戦後教育や水爆実験で被ばくした第五福竜丸の乗員の取材などで5本の記事を書いた。掲載は石原慎太郎の『太陽の季節』についての記事だけ。残りはボツだった。
そんな私だが、民主主義にとっての「報道の自由」の大切さは、認識している。私は戦前から戦後にかけて、日本の作家たちが残した日記を研究したことがある。私と親交のあった高見順は、真実を伝えず、大本営発表を垂れ流した新聞に憤っていた。
「敗戦に対しては新聞にだって責任がある」「言論弾圧に抗して腐敗堕落を防ぐべきではなかったか」。新聞は報道の自由を自らは勝ち取れず、敗戦後の占領下、米国によって与えられた。高見はそれを「恥」としていた。だが、そうだとしても、戦後民主主義で新聞が果たした役割は大きい。記者としての適性は怪しい私も、日本の新聞に寄稿の機会を与えられ、自由を享受してきた。
戦前に共産主義者との嫌疑で逮捕され、拷問を受けた高見は、自由のありがたみを肌身で感じていた。戦後68年。当たり前の自由を、記者はどう受けとめているのだろうか。いま一度、高見の言葉をかみしめる必要があると感じている。(寄稿)
- ドナルド・キーン(どなるど・きーん)
- 1922年、ニューヨーク生まれ。第二次世界大戦中、米海軍語学校で日本語履修、通訳で従軍。戦後、日本文学を研究。53年、京都大留学。55年から米コロンビア大で教える。2008年、文化勲章。12年、日本国籍取得。著書に「明治天皇」など。同大名誉教授。