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2009年 8月11日
鉄路の「古き良き時代」訪ねる

新潟「にいがた廃線浪漫」

人はなぜか、「失われしもの」に心ひかれる。モータリゼーションの波にもまれ、次々に地図から消えていった地方鉄道はその一つだろう。そんな廃線の跡を月1回、新潟県内で学芸部の記者たちが訪ね歩く。1月から夕刊で始まり、現在は第1木曜日に掲載中。

鉄道は人々の暮らしと共にあった。新発田市の中心部から同市の最奥、赤谷までを走った国鉄赤谷線。1984年の全線廃止まで、沿線に住む中学生たちはボックス席を占拠し、「友達とわいわい話しながら」汽車通学を楽しんだ。JR弥彦線は東三条―越後長沢間が85年に廃線。それまで越後長沢駅は朝夕、通勤通学客や三条市街へ行商に向かう人でごった返した。線路跡には今、国道が走る。駅のあった場所に立つバス停の名に人々の思いがこもる。「長沢駅跡」。みんながそう呼んでいるうち、「自然と正式名称になった」という。

山と田んぼが彩る四季の自然をバックに列車はのんびりと走った。「花見といえばトッテツ」。越後交通栃尾線(75年廃線)の長岡―悠久山間は春を迎えるたび、長岡市東部の桜の名所、悠久山の花見客であふれた。満員で乗れなくても「置いていかれたいや~」なんて、笑って列車を見送った。加茂市と五泉市を結んだ蒲原鉄道(99年廃線)は峠越えの路線。晩秋になると落ち葉がレールにまとわりつき、電車はよくスリップした。客は列車から降り、乗務員と一緒に滑り止めの砂をまいた。「みんなで列車を動かしていた時代」だった。

夕刊担当の大日方英樹デスクは「高速交通時代を迎える以前の新潟に、心温まる人間ドラマが展開されていた。そんな沿線の人たちの営み、心を読み取ってほしい」と話す。取材陣は20代半ばから30代。若い記者たちは消えた鉄路を訪ねることで「ふるさとの古き良き時代」を詩情豊かにつづり続ける。(審査室)

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