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2009年 9月15日
若い記者が向き合う戦争体験
苫小牧「君は玉音放送を聞いたか」
1945年8月15日の玉音放送を、どんな状況で、どんな思いで聞いたのか。苫小牧の戦争体験者を訪ねた聞き書きからは、さまざまな悲劇の記憶と平和への強い願いが伝わってくる。8月10日から10回、社会面に連載。
長崎の造船所で働いていた男性は、休日で出掛けた長崎駅で被爆。尿意を覚えて小路に駆け込んだため直撃を免れたが、友人の姿は消えていた。玉音放送は入院先の病院に流れた。「あの日を風化させてはならない」と原爆の語り部を続ける。
樺太(現サハリン)の師範学校生だった男性は、直立不動で玉音放送を聞いた。放送後の8月20日、ソ連軍の侵攻で真岡郵便電信局の電話交換手の女性9人が自ら命を絶った。親友の姉も当事者だった。思い出すと今も悲しみが胸を締め付ける。
同じ樺太で玉音放送が流れた夜、ソ連軍から逃げる途中、幼い子を捨てる母親を目撃した女性がいる。置きざりにされた子は死んだと聞いた。「戦争は普通の人々の心も異常にさせてしまう」。
満州で関東軍の毒ガス兵器研究にかかわっていた男性。荒涼とした演習場で、馬や犬が苦悶(くもん)の表情で次々に倒れる実験光景が脳裏に焼き付いている。玉音放送はモンゴルとの国境で聞いた。「人間は『仕事』と思ってやれば、どんな恐ろしいことも平気でできるんだ」。
勤労動員中に米軍機の空襲に遭った女性。予科練に入り死ぬ覚悟で特殊部隊に志願した男性。中国大陸を転戦し銃弾で胸を負傷した男性。だれもが、ぼうぜんとしつつ安堵(あんど)もした敗戦の日を思い出し、「戦争は二度とあってはならない」と語る。
本格的な終戦企画連載は同紙では久々だ。下川原毅社会部長の下で、入社数年の若い記者たちが真剣に取り組んだ。「いい研修の機会になった」と清水恵一編集局長。担当したのは河村俊之、村上辰徳、姉歯百合子、高田晴朗記者。(審査室)