2010年 4月13日
公表は「ルール無視」

長官銃撃時効と捜査概要をめぐる社説
失敗の検証と謝罪が先決

国松孝次警察庁長官(当時)が1995年3月に銃撃された事件が、3月30日午前0時に時効となった。15年間の捜査は真相を解明できぬまま終結したが、記者会見で警視庁の青木五郎公安部長は「オウム真理教グループによる計画的、組織的テロだった」との捜査結果概要を公表した。立件できなかった事件の「犯人」を名指しするのは極めて異例。34本の社・論説が警察の捜査と対応を批判した。

組織の病理が失態招く

《捜査瞑想》朝日「15年間の捜査は迷走を繰り返した。真相を闇の中へと押しやったのは、警察組織の病理が招いた失敗の連鎖だったといっていい。(略)捜査本部を主導したのは公安部だった。証拠の積み重ねよりも、見立てに基づいて『情報』から絞る捜査手法。かたくなな秘密主義。刑事部との連携のまずさ。公安警察のそうした体質が、すべて裏目に出た」、読売「警察の威信をかけた捜査と言われながら、なぜ解決できなかったのか。公安部と刑事部の連携不足など縦割り組織の弊害や、最も基本的な、現場周辺の地道な聞き込み捜査を欠いたとの批判が、警察内部にもある」、産経「オウム信者だった現職巡査長が浮かび、懲戒免職になった元巡査長ら4人をいったんは逮捕したが、元巡査長の供述は二転三転し、処分保留で釈放せざるをえない失態を演じた。元巡査長の供述に振り回され、捜査が迷走したことも解決を困難にした。有力な物証や供述が得られない時点でなぜ、もう一度冷静に捜査方針を見直さなかったのか」。

《概要公表》日経「賛否両論があろう。検察当局が証拠不十分と判断した容疑内容を『警察が突き止めた事実』のように記すのは、容疑をかけられた側の人権の観点からは問題がある。しかし、警察がどのような調べをして何を証拠にオウム関係者に容疑をかけたのかを公にし、捜査を国民の批判にさらす意味では、公共の利益にかなうとの評価もできる」、北海道「公安部長は、公表した理由を『公益にかなうと考えた』として、オウム真理教がいまも危険性が認められる団体として観察処分を受けていることなどを挙げた。(略)だが、そのことと司法手続きに沿って事件を処理するのは別の話だ。警察が捜査して検察が起訴、裁判所で有罪・無罪を判断するのが、法治国家における司法の枠組みだ」、中日・東京「かつて検察当局が不起訴処分とし、司法手続きを踏んでいない捜査内容を一方的に世間に公表することが許されるのか。警察の威信を懸けた十五年に及ぶ捜査に前向きでなかった検察当局への抵抗かもしれないが、なにより警察は犯罪を裁く権限を持ち合わせてはいないのだ」、信毎「概要は状況証拠の積み重ねで、導き出された結論も、あくまで推測の域を出ない。記者会見で公安部長も『実行犯や共犯者を特定できるだけの証拠はなかった』と認めている。であれば、こんな『結論』を公表すべきでなかった」。

《「犯人」視》毎日「立件に足る証拠が十分でなかったから時効になったのだ。なのに時効成立後、警察が特定の団体を名指しして『犯行グループ』と公言することが許されるのか。オウムの犯した罪を考慮しても、法治国家における刑事手続きのルールを踏み外していると疑問を持たざるを得ない」、新潟「これが許されるならば、もはや何でもありということにならないか。裁判手続きを経なくても、当局は捜査を通じて得た情報を公表し『この団体が犯人だ』と指弾できる。(略)警察権力の恣意(しい)的運用につながりかねないことを恐れる」、神戸「具体的な事件とかかわりがあったとみられる幹部信者や在家信者らがA、Bなど記号で示されている。『警視庁の所見』とことわっているが、立件されなかった特定の個人や団体名を犯人視して発表することが、今後の捜査の教訓になるとは思われない」、中国「そこまで結論付けながら、なぜ起訴に持ち込めなかったのか。実行犯や共犯者を立件できる証拠がなかったとしているが、釈然としない。証拠をつかめなかった原因をもっと解き明かすべきだ」。

市民の警察不信は増幅

《謝罪・検証》愛媛「警視庁がまずやらねばならぬことは、『決め付け』に始まった捜査の過ちを認め国民に謝罪することではないか。その上で、事件を解決できなかった理由を検証し、教訓を生かす組織に生まれ変わる決意を示すべきだ」、西日本「警察トップを狙った銃撃事件が未解決となっただけでも、国民の警察に対する信頼は失墜している。折しも、菅家利和さん(63)の再審無罪が確定した足利事件では、警察などの捜査手法が厳しく問われたばかりである。これでは市民の警察不信を増幅するだけだ。警視庁がやるべきことは言い訳ではない。『失敗』を検証し、今後の捜査に生かすことだと肝に銘じるべきだ」。(審査室)

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