2010年 8月24日
核廃絶へ意義ある一歩

終戦記念日に寄せた社説
現実踏まえ、戦後問い直せ

65回目の終戦記念日。今年は日韓併合100年、日米安保条約改定50年でもあり、戦争を反省し平和を守る新たな動きが多かった。広島の平和記念式典には初めて国連の潘基文(バンギムン)事務総長や米国のルース駐日大使が参列。菅直人首相は首相談話で、朝鮮半島を植民地支配したことをあらためて謝罪した。元シベリア抑留者に特別給付金を支給する法律も議員立法で成立した。人口の8割近くが戦後生まれとなる中、戦争の惨禍を伝える努力も全国で続いた。平和を論じた51本の社・論説から。

「昭和システム」との決別

《歴史の教訓》 産経「(日本に)欠落しているのは国を導く透徹した戦略観だ。これは昭和19年7月にサイパン島を失い、10月のレイテ沖海戦で海軍が事実上消滅して日本の敗北が決定的になったあとも、指導部が終戦工作に動こうとしなかったことと相通ずる。(略)国家戦略のなさ、外交センスの貧弱さ、情報分析能力の欠如―その危うさは今と似ている」、朝日「冷戦下、西側の一員として安全保障と外交を米国に頼り、経済優先路線をひた走るという『昭和システム』は、確かに成功モデルだった。だが、時代が大きく変化した後も、私たちはそこから踏み出そうとはしなかった。(略)戦後65年にあたって考えるべきは、戦争を二度と繰り返さないという原点の確認とともに、『戦後』を問い直すことではないだろうか。それは『昭和システムとの決別』かもしれない」。

《沖縄と安保》 北海道「安全保障を日米安保に委ね経済成長に力を注ぐ。そうした戦後のしわ寄せを、過重な基地負担として沖縄は強いられてきた。グローバル化で国家間の相互依存は急速に深まっている。古い冷戦思考に引きずられ、いつまでも基地を固定化していいわけがない」、中日・東京「火が付いた沖縄県民の『県外・国外移設』の要求が消えるとは思えません。冷戦構造が残る東アジアで沖縄の戦略的価値が高いとはいえ、海兵隊の移転が抑止力や日米安保崩壊に至るとも思えないからです」、日経「日本国内では、米国と距離を置き、外交のフリーハンドを広げるべきだという離米論も聞かれる。だが、朝鮮半島をはじめ日本の周辺にはなお多くの紛争の火種があり、米国との同盟なしで安定を保つのは難しい。影響力を増す中国とバランスを保つため、周辺諸国も強固な日米同盟を必要としている。情緒と願望に押し流され、現実を踏まえた冷徹な外交を忘れたとき、国の安定と繁栄は危うくなる」、信毎「10年ほど前、沖縄の米海兵隊を訪ねたときのことである。司令官が力説していた。『この基地にいる兵士は全員、日本を守るために命を捨てる覚悟ができている』。本当なのか、と米国に詳しい友人に尋ねたら、『それは建前』と一笑に付された。若者の多くは退役後の奨学金目当てで軍に志願している、日本のために死ぬなんてとてもとても、と。貧しさゆえに、大勢の若者が軍の扉をたたく」。

《広島・長崎と核》 毎日「特筆すべきは核廃絶を巡る動きだ。原爆投下の当事国である米国の駐日大使が初めて広島・平和記念式典に参加した。英仏代表と国連事務総長も初参列だった。(略)それぞれ動機は異なるが、核大国と広島・長崎が初めて『核廃絶』という共通の目標を持ち、接点を持ち得た意味は大きい」、山梨「ルース駐日大使からは謝罪の言葉も献花もなかった。しかし昨年のプラハ演説で『核兵器使用国の責任』に触れたオバマ大統領の指示で出席したこと自体、意義がある」、読売「米国では、『原爆投下で本土上陸作戦が回避されたことにより、多数の米国人の生命が救われた』とする主張が根強い。しかし、原爆という残虐な兵器の使用によって、20万人を超える広島、長崎の市民の生命が奪われた重みは消えない。一方で、日本も過去の誤りを率直に認め反省しなければ国際社会からの信頼は得られない」。

戦争遺跡を平和教材に

《伝える努力》 西日本「北九州では、市民が街に残る爆撃の跡や慰霊碑などを見て回る『平和ウオーク』が行われ、大牟田でも『空襲を記録する会』主催の戦跡めぐりがあった。戦争体験者から直接、体験談を聴く機会が失われていく中で、自分の足で戦跡をたどり、平和を考える機会を持つことは、これからの『継承のかたち』の一つを示すものだろう」、高知「戦争があった時代を今に伝える『物言わぬ語り部』として、調査や保存が進められているのが戦争遺跡だ。本県は太平洋戦争末期、米軍の本土上陸に備え、トーチカと呼ばれるコンクリート製の防衛陣地や壕(ごう)などが数多く築かれた。(略)戦争遺跡の保存に取り組む人たちに共通するのは『遺跡を「負の遺産」としてではなく、平和のための教材として生かしたい』という思いだ」。(審査室)

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